して、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥《がんめい》なる守旧家でなかったことも確実であります。
小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。
彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年|赤毛布《あかげっと》は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に、金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密《ちみつ》な頭を持っておりました。
ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を統《す》ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。
その人となりを聞いてみると、酒を嗜《たしな》まず、声色《せいしょく》を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔《かいぎゃく》とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜《へんちゅつ》せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易《えやす》からざる人傑であります。
小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反《そむ》くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。
長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺《みなごろ》しだ! と戦慄《せんりつ》したというのも嘘ではあるまい。
かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、甚《はなは》だノホホンです。
小栗の立てた策
前へ
次へ
全64ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング