ということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。
高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気《しょげ》こんで、
「ははあ、ではやむを得ないところ」
旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり鈍《にぶ》ってしまいましたが、拳のやり場を体《てい》よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。
ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ面《かお》で測量をはじめました。
一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。
駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。
この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解《りょうかい》を得ているというのは、ありそうなことです。
そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。
駒井は洲崎《すのさき》の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。
相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。
相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。
勝安房《かつあわ》(海舟《かいしゅう》)の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。
駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。
その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。
六
小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人《なんぴと》の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
事実に於て
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