から、この滑稽の持腐れは思いきって発揮される!
浮き出す度毎《たびごと》に、その無恰好《ぶかっこう》に大きな頭の赤毛の揺れっぷり、苦しがって潮を吹く口元、きょろきょろと見廻す眼鏡の巨大なのと、その奥の眼の色の異様なのも、物それを少しも怖ろしくしないで、いよいよ滑稽なものにする。
これぞ前名のウスノロ氏――今や駒井造船所の新食客マドロス君その人であると知った時には、見る人の口が、唖然《あぜん》としてふさがらないことと思います。
これは、ジャガタラ薯《いも》のマドロス君に間違いはないのであります。
マドロス君が海の中に出没しているということは、炭焼氏が山の中を徘徊しているのと同じことに、あたりまえのことなのですが、本来、あちらの方の、洲崎の留守役に廻っていることとばかり信じきっていた人が、早くもここに先廻りをしている順序となっているのですから、知らない人は、ちょっと面食《めんくら》うかも知れない。
だが、それとても、有り得べからざることでもなんでもありません、マドロス君が先発して、こちらに来ている――駒井氏と、田山氏が、後詰《ごづめ》として、そちらへ出張して行く――と見れば不自然でも、意外でもなんでもないことですが、ただマドロス君の海の中に於ける独《ひと》り相撲《ずもう》が、あまりにふんだんに滑稽の持腐れを発揮していただけに、前後の聯絡が、少しばかり意外の感を起さしめるというに過ぎないでしょう。
しかしながら、天下に有用なものでも、無用なものでも、有るものが発見されないという例はなく、発見せられて、その存在の価値を評価されないという例も、極めて少ないことであります。
せっかく、ここで多量に発揮されていた滑稽の持腐れも、やがては認めらるるの時が来ました。
それは駒井、田山の両氏がここに到着した当然の結果ではありません。無論二人が到着すれば、マドロス氏の演ずる滑稽の、決して単なる滑稽にあらざる所以《ゆえん》も、明白に分明することと思いますが、滑稽が、奇怪を以て認められたのは、それより以前、別の人によってなされたことでありました。
竿と、ビクとを携《たずさ》えた漁師の子供が二人――夫婦《めど》ヶ鼻《はな》の方から、ここへ通りかかって、ふと件《くだん》の滑稽なる持腐れを発見した第一の人となりました。
この二人にとっては、滑稽がまず非常なる驚異として現わされま
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