せんか、平沙渺漠《へいさびょうばく》として人煙を絶す、といった趣ですね」
「左様、小湊《こみなと》、片海《かたうみ》あたりのように、あらゆる水の跳躍を見るというわけでもなし、お仙ころがしや、竜燈の松があるというわけでもなし――至極平凡を極めたものですね、海の水色までが南房のように蒼々《そうそう》として生きていません――沼の水のようです」
「しかし、この九十九里が飯岡《いいおか》の崎で尽きて、銚子の岬に至ると、また奇巌怪石の凡ならざるものがあります。それから先に、風濤《ふうとう》の険悪を以て聞えたる鹿島灘《かしまなだ》があります。ただ九十九里だけが平々凡々たる海岸の風景。長汀曲浦《ちょうていきょくほ》と言いたいが、曲浦の趣はなくて、ただ長汀長汀ですから、単調を極めたものです」
「でも、不思議に飽きません。強烈にわれわれを魅するということはないが、倦厭《けんえん》して、唾棄《だき》し去るという風景でもありません。あるところで海を見ると、恐怖を感ずることもあれば、爽快に打たれることもある、広大に自失して悲哀を感ずることもないではないですが、この平凡なる九十九里の浜で、こうしてなんらの奇抜な前景もなく、沼の拡大したような海を見ていると、海というものが他人ではない気持がします」
田山はこう言って、曾《かつ》て南房州の海の生きているのを見て、感激を以て語った時の表情とは全く別人のように、茫然としていると、駒井甚三郎もうなずいて、
「風景としてはとにかく、単に海を広く見るという点からいえば、日本中、この辺の海岸に及ぶところはないでしょう。この海を Pacific Ocean と言います、太平洋とか大海原《おおうなばら》とか訳しますかな、米利堅《メリケン》の国までは遮《さえぎ》るものが一つもありません。われわれは今、世界でいちばん広くながめ得る地点から見ているのです」
田山白雲が、それについて言いました、
「事ほど左様に、われわれは世界で最も大きなもの、最も広いものに接していながら、その刺戟というものを少しも感じないのは、不思議といっていいです」
駒井甚三郎が、それを肯定して、
「そうです、何かわれわれに刺戟を感ずるもの、威圧を感ずるもの、窮屈を感ぜしめるものは、偉大なものじゃありません、少なくも広大なものではありません」
「そういえば、そうかも知れないが、そうだとしてみれば
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