言いましたけれど、それはお銀様の狼狽《ろうばい》を、叱責《しっせき》するの言葉でもありません。
お銀様も、それには何とも答えないで、上からおしかぶせて見下ろすように、燃えさかるわが家の火をながめていましたが、その怖ろしい形相《ぎょうそう》のうちに、白眼がちにかがやいている眼の中に、強い光の冷笑が漂うているのは不思議です。
これは恐怖と狼狽の余り、前後の見さかいもなくして、ここまで逃げて来た人の態度でも、表現でもありません。
「弁信さん、火事というものは、近いところにいると怖いが、こうして遠くで見ていると、愉快なものねえ」
と言いました。
「なんとおっしゃいます」
弁信は、こちらを向かずに、押返しました。
「弁信さん、あなたには、あの盛んな火の色が見えないでしょうが、人の災難は別として、ただ見ている分には、なんという壮快なながめでしょう」
「そうですか、左様に見えますか、人間の災難も見ようによっては、愉快、壮快というものに見えるものですか。もし、そうだとすれば、人間の眼というものは怖ろしい魔術使いでございます。私は左様な魔術使いを、自分の面《かお》の中へ置かなかったことが幸いになります。人の災難を見て、愉快、壮快と感ずるような眼という魔術使いが、私のこの小さな面《かお》という領分の中にいてくれなかったことが、不具ではなくして、光栄であったかも知れません」
「弁信さん、理窟は抜きにして下さい、火というものは愉快なものです、壮快なものです、いっそ、この地上にある最も痛快至極なものであるかも知れません」
お銀様は、冷然として、昂奮してきました。冷然として昂奮はおかしいようですけれども、事実、さきほど、弁信に行当った当時は、多少とも、恐怖と、狼狽とに、とらわれていないでもありませんでした。ここへ来て、まともに、わが家の火の全景を見渡した時、はじめて冷然として、その持てるところの強味が、土から生えたもののようであります。
これに対して弁信の落ちつきは、例によって、憂《うれ》うるが如く、愛するが如く、憐《あわ》れむが如きの冷静であります。
弁信が冷然として答えずにいると、冷然として昂奮してきたお銀様が、
「ごらんなさい、この地上に、あれほどの力を持った暴君がありましょうか」
「暴君とおっしゃるのは」
「ごらんなさい、私の家は、王朝以来の家柄だと申しておりました、甲斐《
前へ
次へ
全187ページ中175ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング