、おそらくこの近いところに、呼びかけた当人はいないにきまっております。しかし、また、呼びかけた当人がいても、いなくても、弁信は、ふとその頭に上り来ったほどの人は、かたわらに在るが如く呼びかけるの習わしは、今に始まったことではありません。
「モシ、お嬢様、あなたはまた、何かおむつかりになっておいでになりますね、お腹立になっておいででございましょう、あなたが、烈しい憤怒《ふんぬ》の念に駆《か》られておいでになる有様が、私の前に、手に取るように浮んでいるのでございます――」
 こういって弁信法師は、真暗い野原の中に耳を傾けて、また暫くは無言でおりました。別段、返事を期待しているとも見えないが、何か心には期するところがあるにはあるもののようです。
 第一、ここは白根三山の麓《ふもと》、平野のまっただなかであるか、或いは平野と同じほどに広い藤原の庭内であるか、それすらもよくわかりません。しかし弁信の立っている地点は、屋外であることに間違いありません――絶叫してみたところで、そうは容易《たやす》く人の耳に触れるほどの距離ではないのであります。まして弁信の声は、怨《うら》むが如く、泣くが如く、憂《うれ》うるが如く、教うるが如き低音でありました。一向に返事のないことを予期して、そうして弁信が、おもむろに続けました。
「お嬢様、あなたが、むらむらと瞋恚《しんい》の炎を燃やして、身も、世もあられず、お怒りになるそのお心が、離れていても、ぴたりと私の胸に響いて参ります。あなたの胸に燃やしておいでになる憤怒のほのおが、遠く私の魂をも焼くのでございます。人間の煩悩《ぼんのう》妄想《もうそう》のうち、憤怒《ふんぬ》の一念ほど、人の魂を焼き亡ぼす力のあるものはございませぬ。その怖ろしい力のために、海の潮が満引《みちひき》をするように、あなたのお心のうちが、日夜に動揺致しますのを見るにつけ、どうぞして、そのお腹立を和《やわ》らげ、そのお憤りの心をしずめてお上げ申したいと、思わぬことはございません」
と言いながら、弁信はソロソロと歩みはじめました。
「あ、いけません、それが悪うございます、それですから、あなたのその憤怒の心に油が加わるばかりでございます、消えるどころではない、いよいよ燃え上るばかりでございます、そういうことをなさるから、それで……あなたの身と、魂が、ジリジリと燃焼して参り、やがてそれ
前へ 次へ
全187ページ中168ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング