にも見えません。
「素敵《すてき》だなあ」
と宇治山田の米友が言いました。木曾第一の勝景と称せらるる寝覚の床の一枚岩の上に立っても、米友としては、これ以上の嘆称の言葉は吐けないのでしょう。
 その神工鬼斧《しんこうきふ》に驚嘆して歌をつくり、または古《いにし》えの浦島の子の伝説を懐古してあこがれたりするようなことは得手《えて》ではありません。また地質学上や、風景観の上から相当の見識を立てることも、この男の得意ではありません。
 ただ、平凡な景色ではないという印象が、単に「素敵だなあ」の一句に集まって、「ナンダつまらねえなあ」とけなされなかったことだけが、寝覚の床の光栄かも知れない。
 米友が空《むな》しく、その好風景の岩の上に立っていると、その時川で遽《にわ》かに人の罵《ののし》る声がします。
「川流れだあ」
 この声で米友が思わず飛び上って、例の地団太《じだんだ》を踏みました。
「ちぇッ」
 地団太を踏んで、激しく身ぶるいをすると、
「川流れだあ」
 続いて罵《ののし》り騒ぐ声がするものですから、
「それ見たことか」
 米友は身ぶるいして、槍を取り直して意気込みました。
「だから言わねえこっちゃねえ」
 彼は再び、まっしぐらに岩から岩を飛んで、声する方に走り出しました。
「ちぇッ」
 走りながらも、身をふるわして憤《いきどお》りを発しているところを見ると、その川流れ! という叫び声が、米友をして、われを忘れて憤りたたしめたものに相違ない。
「だから、言わねえこっちゃねえ」
 ただ遠音《とおね》に、川流れの警告を聞いただけで、米友の発憤ぶりは何事だろう。
 この男は、それと聞いて、はや独断をしてしまっている。いま叫ばれた川流れの本尊こそは余人ではない、わが道庵先生に相違ない、と早くも独断してしまっている。だから、本能的に憤起して、超人間的に、岩と岩との間を飛びはじめたのです。
「だから言わねえこっちゃねえ」
 自分がちょっと目をはなせば、もうこのザマだ、世話の焼けた話ったら……酔っぱらって、とうとうころげ込みやがった、軽井沢や、浅間の、ちょろちょろ水へ転げ込んだのと違って、天下の木曾川へ転げ込んだんだ、冗談《じょうだん》じゃねえ、深いぜ、青んぶく[#「青んぶく」に傍点]だぜ水が……あの先生、泳ぎを知らねえんだろう、それに酔っぱらってると来ているから、あがきがつくめえ
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