う字なんだよ。ところが藪の先生、それを『※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]《しゃけ》』と読んでしまったんだ、魚扁に生、それはサケともいうし、シャケともいう字なんだ。そこでよろしいとも、シャケならいくら食べても差支えないと答えたものだから、先方はフグを食ってしまった。病気上りにフグを食ったからたまらない、忽《たちま》ち往生してしまったのだ。鮭《ふぐ》と、※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]《しゃけ》では、忙しい時は誰だって間違えらあな……なるべく物の名というものは、区別のつくように書かねえと、体《たい》が現われねえのみならず、一字の違いで、この通り命に関《かかわ》ることもあらあな、ゴマかしはいけねえ」
 道庵は懇々《こんこん》と説きさとすようなことを言って、わけもわからずに源助を感心させ、
「ところで、男というものは、一片の鉄を鍛《きた》えるにしてからが、人と違った働きをしてみせなけりゃあ、生甲斐《いきがい》が無《ね》えのだ。真似《まね》をして、ゴマかしをして、一生を終るくらいなら、死んじまった方がいい。わしは今、この焼直し屋を医者の方で調べているから、調べ上げたら、お前さんにも見せて上げる。それはそうと、友様はどうした、もうやって来そうなものだな」
 こうして心待ちに待っているが、どうしたものか、あの気の短い男が、容易に姿を見せないのが不思議です。
 米友が容易に、姿を見せないことによって、道庵の心にようやく謀叛《むほん》が起りました。
 というのは、日頃、あまり米友の責任観念が強過ぎるものだから、せっかくの道中が監視附きのようになって、思うように脱線のできないことが、道庵にとって、一方《ひとかた》ならぬ苦痛といえば苦痛であります。
 そこで、この機会にひとつ、彼を出し抜いて、思う存分にわがままを働いてみたいものだという謀叛気が、道庵の心の中で起りました。これは道庵として無理のないところがあるかも知れません。
「まあ、いいや、どのみち、馬が西へ向けば尾が東、ということになるんだから、落ちつくところは上方《かみがた》よ、かまわず馬をやってくんな、後は後でどうにかなりまさあ」
といって、道庵はそのまま馬を進めさせてしまいました。
 一方、特別注文の熊胆《くまのい》を取りに走《は》せ戻った宇治山田の米友は、店へ寄って、その使命のほどを伝えて、薬物の取出しを待
前へ 次へ
全187ページ中146ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング