じ》を片手にかかえて、お松がその地蔵のお堂に近づきました。
 ムクは心得て、早くもお堂の前に大きな狛犬《こまいぬ》の形をして坐り込んでいる。
 地蔵尊にお辞儀をしてから、お松は鞍からおろした十何足の草鞋を、堂の柱にかけました。これは与八の特志に出づるもので、こうして手づくりの草鞋を堂の前にかけて、道中、草鞋の切れた人の自由に取るに任せてあるものです。
 実は、このお堂と、地蔵様とも、あまり久しからぬ以前に与八が立てたもので、無論、このお像が、与八の手に刻まれたものであるのみならず、このお堂もまた与八の手になって、与八の手で運ばれ、一切が手づくりになった地蔵菩薩の霊場であります。しかし、その発願主《ほつがんぬし》はむしろお松というのが至当で、お松が、与八さん、どうしても、ここへこういうものをお立てなさい――そのお地蔵様も、お前さんが諸方で頼まれてこしらえるより、もう少し大きいの、大菩薩峠の上へのぼせたほどのものでなくとも、かなり目に立つようなものをおこしらえなさい、そうして、お堂も形ばかりでも屋根のあるのを、お立て申して上げようじゃないか――とお松が発願して、そうしてここへ、これだけのものを立てさせたのです。
 なにゆえに、ことさらに、こんな、格別、形勝の地ともいえないところへ――ことに、ほとんど街道に沿うて――この街道は、江戸からいえば、大菩薩峠に通ずるの甲州裏街道であり、こちら方面からいえば、江戸街道であるが――この物淋しい野中の街道の、人家には程遠いところへ、何の縁故で、お松が与八にすすめてお地蔵様を立てさせたのか。
 それにはそれで、なるほどと思われる理由があるのです。つまり、このところこそ、十九年以前に、与八が何者かの手によって捨てられたところで、同時に何人《なんぴと》かの手によって拾われたところなのです。捨てられるのと、拾われるのは、大抵の場合、ほぼ時を同じうしていなければならぬ。
 与八を捨てたのは誰だかわからないが、拾った人はよくわかっている。わかり過ぎるほどわかっている。机竜之助の父の弾正《だんじょう》が、江戸からの帰りがけに通り合わせて、捨てられてからまだ二時《ふたとき》とは経たない間に、それを拾い上げて、その時も今と同じように、弾正は江戸から馬で来て、拾うのは従者に拾わせたが、自分が抱き取って、沢井まで馬に乗せて連れて来たものです。
 それから後
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