たとえば、歌わんとする思想があって、それが十七文字になり、三十一文字《みそひともじ》なりに現われたり、感情があって、しかして後に平仄《ひょうそく》の文字が使用されるのだが、あの子供のは全然それが逆に行っています。つまり、思想と、感情と、文字が、節調を作るのではなく、節調が、思想と、感情と、文字とを駆使《くし》するのですから、まさに詩歌の革命です。ところが、あの子供はその重大な革命を、無邪気な放漫を以て、尋常一様の遊戯として取扱っているところが奇妙でたまりません」
「なるほど――」
「まあ、今度、ひとつある機会に、それとなく、あの子供のでたらめの歌を聞いていてごらんなさい、そうでなければ、管笛を弄《もてあそ》ぶところを隙見をしていてごらんなさい、節調が――音律が、言語と、文字と、思想とを、縦横に駆使する離れ業《わざ》を、当人自身に悟られないようにして、聞いてみてごらんなさい、とてもめざましいものですよ」
「音律のことは、それがしには、よくわからないのですが……」
といって駒井は、やはりその蘆管というものには、耳をすますことを忘れないで、
「その蘆管というのは、ただの笛ですか」
「蘆《あし》の幹を取って、それを一節切《ひとよぎり》のようにこしらえてみたのです。最初あの子供が、穴を三つだけ明《あ》けて、しきりに工夫しているようですから、拙者が寄って五つにさせました。いわば二人の合作の新楽器ですから、支那のいわゆる蘆管――遼東の小児の弄《もてあそ》ぶそれとは違っているかも知れません」
「胡笳《こか》というのとは、違いますか」
「それは違いましょう、笳というのは、ヒチリキの異名だそうですが、胡笳というのは、いかなる笛かよく知りませんが、蒼涼《そうりょう》たる原始的の響きがあるものとは想像されます――君聞かずや胡笳の声最も悲しきを、紫髯緑眼《しぜんりょくがん》の胡人吹く、これを吹いてなお未だ終らざるに、愁殺す楼蘭征戍《ろうらんせいじゅ》の児……」
と田山白雲が吟声に落ちて行くところは、御当人が茂太郎を笑いながら、御当人自身も、茂太郎にかぶれたところがあるようにも思われる。それを駒井が、どちらにも注意を払いながら、
「あなたは詩吟が上手ですね」
「上手といわれては恐縮しますが、口癖のようなもので、やっぱりでたらめです、でたらめとは言いながら、茂太郎に比べると、節調はまずいが、思想
前へ
次へ
全187ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング