すのよ」
「思うことがあるだけじゃつまらない、いつでも思ってくれなくちゃあ」
「でも、怖いと思うこともありますのよ、憎らしいと思うこともありますのよ……そうしてどうかすると、心からかわいそうだと思って、涙をこぼすこともありますのよ。どれが、本当のあなたの姿だか、どれが本当のわたしの心だか、これがわからなくなってしまいます」
 お雪ちゃんはこういっているうちに、またなんとなく悲しくなりました。
 しかしまた気を引立てて、
「先生、きょうは一日、お傍でお話をお聞き申しとうございます。お邪魔にはなりません……お邪魔にならなければ、わたし、自分の部屋へ帰って縫取りを持って参りますから、それをやりながら、ゆっくりお話を伺おうではありませんか」
 こう言って、お雪ちゃんはこたつ[#「こたつ」に傍点]から出て、自分の部屋へ縫取りを取りに行きました。
 その間に竜之助は、横になって、長いきせる[#「きせる」に傍点]をかきよせて、こたつ[#「こたつ」に傍点]の火を煙草にうつして、腹ばいながら一ぷくのみました。
 机竜之助は煙草を一ぷくのんでしまって、吸殻を手さぐりで煙草盆の灰吹の中に、ていねいにはたき、それから暫く打吟じて、二ふく目の煙草をひねろうとするでもなく、そのまま長煙管《ながぎせる》を、指の先で二廻しばかり廻してみました。
 何か縫取物をとりに行ったはずのお雪ちゃんが、存外手間がとれる。待ちこがれているわけでもないが、ちょっと行って、すぐ戻るはずの人が、存外時間をとるのは、多少共に気を腐らせるものです。
 来なければ来ないでいいが、来るといってそこへ出た人が、容易に来ないのは、人をじらすようにもあたる。お雪ちゃんという娘が、決して人をじらすようには出来ていないのだが、故意でないにしても、偶然であるにしても、女は人をじらすように出来ているのかも知れない。
 ところで、その間のちょっとした穴明きの所在に、竜之助は長煙管をカセに使っている。で、二三度クルクルと指の先で廻してみた長煙管を、今度はピッタリと自分の頬に当てて、ヒタヒタと叩いてみました。
 無論、これは寝ていての芸当で、そう食うほどに煙草が好きというわけではないから、自然、煙管の方が扱いごろの相手になります。
 ちぇッ、長い煙管がどうしたというのだ。
 ふと、かれの眼前に、都島原の廓《くるわ》の里が湧いて出でました。
 島
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