けれども、また一方からいうと、今の主膳は、もう、それをさまでやきもきとはしていないようです。もう今までに、金で遊べるところでは大抵遊びつくしているし、金で自由になる女はたいてい自由にしているし、金に渇《かつ》えている時分にこそ、金があったらひとつ昔の壮遊を試みて、紅燈緑酒の間《かん》に思うさま耽溺《たんでき》してみよう、なんぞと謀叛気《むほんぎ》も起らないではなかったが、金が出来てみると、そんな慾望がかえって鎮静し、紅燈とやらにこの傷をさらし、緑酒というものにこの腸《はらわた》を腐らせるような遊びが、古くて、そうして甘いものだという気になって、額を撫でながら、ニヤリニヤリと笑いました。
同時に、ここに集まったたのもしい旧友とても、同じような経験に生きている連中で、もう一通りの遊び方ではたんのう[#「たんのう」に傍点]ができないし、遊ばれる方でも、こういった悪ずれのお客様は、あんまりたんのう[#「たんのう」に傍点]したくないということになっている。
主膳は自分で、乱に至らない程度の酒を加減しいしい飲みながら、一座に向って、自分の胸底にひめていた新しい計画を、ソロソロとうちあけて、連中の同意を求めにかかる。
ことあれかしと期待しているこの連中が、主膳の秘策なるものに共鳴せずという限りはあるまい。
秘策といっても、それは別のことではない、われわれ世間並みの女という女を相手にしつくした身にとって、この上の快楽として、大奥の女中を相手にして遊んでみようではないか、というだけのことであります。
こういうたくらみは、今までしばしばこの連中の想像にも上り、口の端《は》にも上ったのですから、特に奇抜な思いつきでもなんでもないのですが、この際、本気になって実行にとりかかろうという事の密議が、一座の者の固唾《かたず》を呑ませるだけのものであります。
後宮三千というのは支那の話。事実、千代田の大奥に、ただいまどのくらいの女中がいるか知らないが、それらはみな、女護《にょご》の島《しま》の別世界をなして、幸いを望んでいる。
密議半ばで、一座のいなせなのが、あんどんに向って、独吟をはじめました。
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一肌一容《いつきいちよう》、態ヲ尽シ妍《けん》ヲ極メ、慢《ゆる》ク立チ遠ク視テ幸ヒヲ望ム。見《まみ》ユルコトヲ得ザルモノ三十六年……
[#ここで字下げ終わり]
そこで一座は笑いながら、三十六年も大げさだが、これら女護の島の女人たちの多くが、性の悩みに堪《こら》えきれないでいることだけは明らかな事実で、その関を突破さえすれば、洪水のように流れ出して来るのだという。
あるものはまた言う、
大奥という池には、満々たる油が張りきっているのだ。こちらが行って堤をきれば、それは無論、一たまりもなく溢《あふ》れ出して来るのだが、そうするまでもなく、どうかすると、あちらから堪えきれずして堤を破って動いて来る。江島《えじま》生島《いくしま》の事になったり、延命院の騒ぎが持上ったり、或いは長持に入れて小姓を運んだり、医者坊主が誘惑されたりするのは、ホンの小さな穴をあけて表に現われただけの落ちこぼれで、張りきった油は、その中にどろどろとして、人の来って食指を動かすのを待っている。
その時分、夜も大分ふけて、屋敷の外でしきりに犬がほえだしたものですから、一同が、申し合わせたようにピタリと密議をやめて、
「イヤに犬がほえるじゃないか」
何かしらの不安におびえる心持。それを神尾主膳も暫く耳をすましていたが、
「心配することはない、使の者が戻ったのだろう」
という。
「使の者とは……」
神尾のとりすました言葉に、不審をいだく者がある。
今時分、何のために、どこへ使を出したのか、解《げ》せないことである。
「江戸城の、大奥の間取りを見て来るといって出かけたはずだが、多分、それが戻って来たのだろう」
「冗談《じょうだん》じゃない」
一座は呆《あき》れ返りました。神尾が抜からぬ顔でいうものだから、冗談とも思われないので、また呆れました。
そんなら計画はそこまで進んでいたのか。これは今夕のやや程度の進み過ぎた座談とばかり思うていたのに、早や細作《さいさく》を、千代田の城の大奥まで入れてあるらしい神尾の口吻《くちぶり》には、真偽未了ながら、その進行の存外深刻なのに恐怖を抱く程度で、呆れたものもあります。
「冗談じゃない……」向う横町の貸家の、敷金と家賃をたしかめに行くのとは違い、いやしくも江戸城の大奥の間取りを、ちょっと見て、ちょっと帰って来る、というようなことが出来得べきことではない。そんなことは、われわれが駄目を押すまでもなく、神尾自身が先刻心得ていなければならないはずのこと。
「そりゃいったい、何のおまじないだ」
犬は外でどうやら吠《ほ》えやんだ様子。犬は静まったが気のせいか、周囲の竹藪《たけやぶ》が、しきりにザワザワとざわついているらしいのが一層気になる。
「ハハハハ……」
と神尾は、わざとらしく高笑いして、このところへ、今その当人の現われ出づるのを待つもののようです。
だがしかし、主膳の言うことは嘘ではありませんでしたが、見当違いでありました。
その使の者というのは、戻って来たのではなく、これから出て行くところであります。
出て行く時に、尋常に門をくぐらないで、門の中に生えた竹によじのぼり、その竹のしない具合を利用して、ポンと塀の外へ下り立ってしまったものだから、おりから通りがかりの野良犬を驚かしたものと見えます。
この男は地へ下り立つと、パッパと合羽《かっぱ》の塵を払い、垣根越しに屋敷の奥の方の燈《ともし》の光をすかし、それから笠を揺り直し、草鞋《わらじ》の紐《ひも》をちょっといじってみて、
「二足のわらじははけねえ……色は色、慾は慾」
とつぶやいてみたが、
「両天秤《りょうてんびん》にかかると、命があぶねえぞ……」
とその足を二三度踏み慣らしてみて、それからかきけすように姿をかくしたのは、裏宿《うらじゅく》の七兵衛であります。
七兵衛が姿をかき消したかと思う時分に、今ちょっと静まった犬が、またほえ出しました。一つがほえると、次から次へ、根岸の里の犬が総ぼえの体《てい》になって、寝ていた人をさえ驚かしてしまいました。
いったん、姿をかくした七兵衛が、また御行《おぎょう》の松の下に姿を現わしたのはその時で、
「いけねえ……こう犬にほえられちゃあいけねえ」
と息をついて立った有様は、海へ泳ぎ出して、いくばくもなく鱶《ふか》にであって、あわてて岸へ泳ぎ戻ったような有様で、七兵衛としては、かなりに不手際といわねばならぬ。
七兵衛は、夜歩きしても犬にほえられないような秘訣を知り、またほえられても、その瞬間に、それを手なずける秘訣を知っているのでありますが、今晩は思いがけないドジを踏んで、ちょっと手のつけられない程度に犬をコジらかしてしまったものだから、ぜひなくここまで舞戻ったものと見えます。
もし、これを舞戻らないで強行しようものならば、わざわざ網にひっかかりに行くようなものですから、七兵衛としては、ここまで舞戻り、再び犬の鎮静するのを待って、繰り出すより賢い道はないと見える。
七兵衛は今、その最も賢い方法を取って、御行の松の下に、ぴったりと身をひそめているが、多少イマイマしいと癪《しゃく》にさわることがないでもない。
こういう種類の人間には、幸先《さいさき》や、辻占《つじうら》というようなものを、存外細かく神経にかけることがあるもので、七兵衛はそれほどではないが、全く無頓着というわけでもありません。
この屋敷へ、夜毎出入りすること幾度。それは正当に出て、正当に戻ったことは少ないにかかわらず、まだ今夜のように犬に吠《ほ》え出されたことがないのに、しかも今夜ほど大望をいだいて、この屋敷を出かけたことはない。
どうやら、仕事先が気にかかる。
「いけねえ、いけねえ……」
そこで、七兵衛が、何となく気を腐らせてしまいました。
七兵衛の心に、悔恨といったようなものが湧くのは、今にはじまったことではない。
七兵衛は、今度の仕事を終ったら、これで切上げ……と決心のような事をするのも、今にはじまったことではない。その心持につき纏《まと》われ、その心持で仕事にかかりながら、それをやり上げてしまうと、また新しい病が出ることを、自分ながら如何《いかん》ともし難い。
しかし、今度こそは一世一代……これで年貢《ねんぐ》を納めるか、引退して余生を楽しみ得るか、という千番に一番。
つまり、その大望というのは以前にいった通り、豊臣太閤伝来、徳川非常の軍用金、長さ一尺一寸、厚さ七寸、幅九寸八分、目方四十一貫ありと伝えられる、竹流し分銅《ふんどう》の黄金が、いま現に存在するか否かを確めた上、その一箇を手に入れてみたいということ。
神尾主膳のいわゆる大奥の間取り調べという事の如きは、頼まれたとすれば、七兵衛にとっては、片手間でありましょう。
暫くして、犬の吠え声が全くやみました。
五
それから、丑三《うしみつ》の頃、大胆至極にも、江戸城の一の御門の塀《へい》を乗越して潜入した、一つの黒い影があります。
この時の七兵衛は、根岸の化物屋敷を出た時のいでたちとは全く違い、笠も、合羽《かっぱ》も、いずれへか捨ててしまって、目に立たない色の手拭で頬かむりをして、紺看板のようなのに、三尺帯をキリリと結んで尻端折《しりはしょ》り、紺の股引《ももひき》と、脚絆《きゃはん》で、すっかりと足をかため、さしこ[#「さしこ」に傍点]の足袋をはき、脇差は背中の方へ廻して、その長い下緒《さげお》を、口にくわえていました。
それですから、例の菅笠《すげがさ》に合羽、という在来のいでたちとは全く趣を異にするのみならず、今までの七兵衛として、仕事ぶりにおいて、こうまでキリリと用心してかかったことはないようです。つまり一世一代の了簡《りょうけん》が、そのいでたちにまで現われて、今度の仕事は冗談じゃない、という気にもなったのでしょう。
ところで、難なく一の御門の塀を乗越えて、その塀の下をズッと走るとお薬園《やくえん》であります。お薬園の築山の下へ来て、七兵衛の姿が見えなくなりました。
見えなくなったのではない、動かなくなったのであります。鼠のように走って来た七兵衛が、とある木かげへ来て、ピッタリ吸いついてしまいました。
これまで決行するからには、もうあらかじめ城内の案内は、手に取るように頭に入れておいたに相違ない。あらかじめ神尾主膳あたりの手から、江戸城内の秘密図といったようなものを手に入れておいて、要所要所は、悉《ことごと》く暗記しての上からでなければ、こんな仕事にかかれようはずはない。
そこで、お薬園の木蔭にぴったり吸いついた七兵衛は、まず、ちょっと左へ寄ったうしろ、それが二の御門で、その裏が吹上の御庭構え。この門に、番人の気配のないことを見定めて後顧の憂いを絶ち、それから左前面に、こんもりとした紅葉山《もみじやま》をまともに見てから、その眼を右へ引いて行って、これが西丸……その西丸と、紅葉山との間を、七兵衛は暗いところから睨めているらしい。
『御宝蔵』はちょうど、その西丸と、紅葉山との間のところにある。
それと相対《あいたい》した前面が御本丸。ここまで来て見ると、天地の静かなことが案外で、征夷大将軍の城内をおかしたとは思われない。田舎《いなか》の広い鎮守《ちんじゅ》の森にでもわけ入ったような心持で、番人などはいないのか知らと思われる。いても急に出合うような弾力性のではなく、お役御免に近い老朽が、どこぞに居眠りでもしているのだろうとしか思われない。
しかし、何といっても征夷大将軍の本城である、その鷹揚《おうよう》なのに慢心してはならないと、七兵衛も、七兵衛だけの用心をして、容易にそのお薬園の茂みを立ち出でようとはしないらしい。それと一つは、まだ今晩のは瀬踏みに過ぎない。あわよくば進めるところまで進んで、本丸を突き抜いて、
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