たという話。
 しかし、この炉辺閑話の仲間のうちに一人、机竜之助の幼少時代を知っているものがあるということで、また榾火《ほたび》があかく燃え出しました。
 それは雲衲《うんのう》の一人。年頃も机竜之助と同じほどのおだやかな人品。竜之助とは郷を同じうして、おさななじみであったとのこと。
 武者修行が、そのいとぐちを聞いて勇みをなし、膝を進ませて、それを引き出しにかかると、雲衲は諄々《じゅんじゅん》と語り出でました、
「あの人のお父さんがエラかったのですね、弾正様と言いました。どうして、なかなかの人物で、まあ、あのくらいの人物は、ちょっと出まいといわれたものですが、惜しいことに、病気で身体《からだ》が利《き》きませんで、寝《やす》んでばかりおいでになりました。そのうちに竜之助さんが悪剣になってしまったと、こう言われていますよ。お父さんさえ丈夫ならば、どうして、どうして、竜之助さんは、あんなにはならなかったろうと、誰もそう言わないものはありません」
「ははあ、お父さんという人が、そんなエラ物《ぶつ》だったんですか」
「まあ、身体さえおたっしゃなら、日本でも幾人という人になって、後の世に名を残す人だったに相違ないとの評判でございました」
「なるほど」
「そのお父さんに仕込まれたんだから、竜之助さんも子供のうちはようござんした」
「なるほど」
「頭も違っていましたし、剣術はたしかに天性でしたね」
「うむ、うむ」
「もっとも剣術はお父さんという人も、そのお祖父《じい》さんも、なかなか出来たので、代々道場を持って、弟子もあり、武者修行の方も、三人や五人遊んでいないことはありませんでした。そのうちには江戸で指折りの先生も、ずいぶんお見えになっていたのですから、本当の修行ができたに違いありません。お父さんは剣術も出来たが、槍がよかったと言います、宝蔵院の槍が……」
「なるほど」
「ですから、竜之助さんも、竹刀《しない》の中で育ったもので、十二三の時に、大抵の武者修行が、竜之助さんにかないませんでした。そうしてもし、自分より上手《うわて》の者が来ると、幾日も、幾日も、その人を泊めておいて、その人を相手になってもらい、その人より上にならなければ帰さないというやり方ですから、ぐんぐん上達するばかりでした」
「なるほど」
「竜之助さんの修行半ば頃から、お父さんが病気にかかって、起《お》き臥《ふ》しが自由にならなかったもので、あの人の剣法が音無しの構えと言われるようになったのは、それから後のことだと聞きました」
「なるほど、なるほど」
「その時分には、もう、名ある剣客で、竜之助さんの前に立つ者は一人もなかったといわれます」
「うむ、うむ」
「けれども、あのお父さんばかりは許さなかったそうですよ――お父さんという人は、甲源一刀流の出ではありますが、柳生《やぎゅう》、心蔭といったような各流儀にわたっており、それぞれの名人たちの道場をも踏んで来た人ですけれども、竜之助さんの剣術というものは、ちょっとも自分の道場の外で鍛えた剣術ではないと言います。それだのに、腕はお父さんよりもすぐれているということですから、眼中に人のないのも慢心とばかりはいえますまい、人も許し、われも許していたのですが、お父さんばかりは、最後まで許さなかったと申します」
「なるほど」
「そのうちに、あの人が実地に人を斬ることを覚えるようになりました……今になれば、それが思い当ることばかりですが、その時分、そんなことを知った者は一人だってありゃしません」
 雲衲《うんのう》は伏目になって、燼《もえさし》の火を見ながら語りつづける。
「そこで、わたしは、今でも思い出してゾッとするのですが、竜之助さんが九ツの時でした、その時分はよく子供らが集まって、多摩川の河原で軍《いくさ》ごっこをしたものですが、ある時、あだ名をトビ市といった十三になる悪たれ小僧が、それがどうしたことか、竜之助さんの言うことを聞かなかったものですから、竜之助さんが手に持っていた木刀で、物をもいわず、トビ市の眉間《みけん》を打つと、トビ市がそれっきりになってしまいました……子供らはみんな青くなって、河原に倒れたトビ市をどうしようという気もなくているところへ、漁師が来てお医者のところへかつぎ込みましたが、とうとう生き返りませんでした……それでも後は無事に済むには済みました、が、その時から、子供たちも、竜之助さんの傍へは近寄らないようになりました。その後、御岳山の試合で、宇津木文之丞という人を打ち殺したのもあの手だと思うと、やはり子供の時分から争われないものです。あの時だって、あなた、トビ市を打ち殺しておいて、あとで人相がちっとも変りませんでしたもの……御岳山の時は、わたしどもは、あっちにはおりませんでした。こちらへ修行に来てしまいましたから……その後の噂《うわさ》は、大菩薩峠を越える人毎に、何かとわたしたちの耳に伝えてくれます。いい話じゃありませんが、おさななじみのわたしどもにとってみると、どうもひとごととは思われない気がします」
 雲衲の一人は、しめやかに昔を追懐して、道を誤った幼き友のために、代ってその罪を謝するかのような調子です。
「なるほど、なるほど」
 武者修行の武士は、洒然《しゃぜん》としてそれを聞き流し、
「宇津木なにがしを殺したことから以後は、ほぼわれわれも聞いている、それ以前が知りたかったのだ。つまり、机竜之助というものがああなったのは、宇津木を殺した時から始まるのか、或いはそれ以前に原因があったのか、その来《きた》るところを、もう少し立入って知りたかったのが、貴僧の話で、どうやら要領を得たような感じがする……」
 その時に、以前の雲衲の一人は、長い火箸で燼《もえさし》の火をあやしながら、
「左様でございますよ、天性あの人はああいう人でありました。宇津木文之丞さんとの試合以前、つまり、トビ市を殺してから後の壮年時代にも、いま考えてみれば、山遊びに行くといって、幾日も帰らないことがありました。その前後、よく街道筋に辻斬の噂なぞがありましたが、いま思い合わせてみると、あの山遊びは、つまり辻斬をしに行ったのではなかったでしょうか……ですから、あの人の一番最初の不幸は、お父さんの病気でありまして、次にガラリと変ったのは御岳山の試合の前後……あれは文之丞さんが相手ではありません、あれをああさせた裏には、悪い女がありました」
「うむ……」
「お聞きになりましたでしょうな。あれだけは今以て、わたしたちにも不思議でなりません。本来、竜之助さんという人は、女に溺《おぼ》れる人ではなかったのです、剣術より以外には振向いて見るものもなかったのに、あの女が来て、それからあんなことになりました。どっちが先に、どう落ちたのか、その辺がいっこう合点《がてん》が参りませんが……いい女でした。それはたしかに、知っていますよ。和田へ行く時も、このお寺の門前を馬で、大菩薩峠越えをしたものです、そのときふりかえった面影《おもかげ》が、いまだに眼に残っておりますよ、妙にあだっぽい、そうしてキリリとしたところのある、あれでは男が迷います」
「なるほど」
と一句、壮士が深く沈黙した時分、雲峰寺の夜もいとど深きを覚えました。

         三

 一方、沢井の机の道場を、右の武者修行が立去って数日の後、雨が降りましたものですから、お松は蛇《じゃ》の目の傘をさして、川沿いの道を、対岸の和田へ行きました。
 お松が和田へ行くのは、今に始まったことではないが、このごろは、ほぼ一日おきのように和田へ行かなければなりません。
 というのは、和田の宇津木の道場が、机の道場と同じように廃物になっているのを、お松が新しく開いて、机の道場と同じように、学校をはじめたからであります。
 そこへ、多くの娘たちがあつまって、お松をお師匠さんとして、裁縫を学ぶべきものは学び、作法を習うべきものは習うように、一種の講習会を開いたのが縁で、その娘たちのうちの有志の者が力を合わせて、別にまた子供相手の寺子屋をはじめました。
 で、お松は、このごろは沢井の方と一日おきに往来するものですから、雨の降る日は傘をさし、足駄がけで、一里余の道を歩くことは珍しくはありません。
 おそらく、過日の武者修行が、裂石《さけいし》の雲峰寺で、炉辺《ろへん》の物語の種としたのは、途中、このお松の蛇の目姿にであって、それに潤色と、誇張とを加えたのかも知れません。
 しかし、お松のは、そういったような夢幻的の蛇の目の傘ではなく、また、お松自身も不美人ではないが、透きとおるような美人というよりは、もっと現実的な娘で、雨の日、途中で足駄の緒をきった時などは、足駄を片手にさげて、はだしでさっさと歩いて帰ることもあるくらいですから、白昼、蛇の目の傘を開いて、秋草の乱るる高原を、悠々閑々と歩むような気取り方をしないにきまっています。
 ただ、お松の行くところには、いつもムク犬がついて行くこと、その昔の間《あい》の山《やま》の歌をうたう娘の主従と変ることがありません。
 それにお松は、子供の時分から、旅の苦労を嘗《な》めて足が慣らされていますから、この多摩川沿いの山間《やまあい》や、沢伝いのかくし道を平気で歩いて、思いがけないところで出逢《でっくわ》す人を驚かすこともあり、この辺は古来、狼の名所とされているところで、今はそんなことはないにしても、人のかなりおそれる山道も、ムクがついている限り安心ですから、お松はかなり無理をしてまで、山々の炭焼小屋までおとずれ、そこに住む子供たちに、お手本を書いて与えて来ることなどもあるのです。
 それですから、いよいよ過ぐる日の武者修行も、思わざる所で、ひょっこりとお松の出現に驚き、それを大菩薩峠の上に移して、話に花を咲かせたと見れば見られないこともありません。
 そういった場合、お松自身には、そんなきどり方はないとしても、こういった山里で、ひとたびは京の水にもしみ、ひとたびは御殿づとめもした覚えのある妙齢の娘が、不意に、木の間、谷間から現われ出でた時は、少なからぬ驚異を誘うのも無理のないことであります。
 そんなところからお松の生活を見れば、詩にもなり、絵にもなりましょうが、お松自身にとっては、この頃ほど自分の現在というものに、喜びを感じていることはありません。
 人の現在を喜ぶのは、多くの場合、過去の経験を忘れ、未来の希望を捨てた瞬間の陶酔に過ぎない浅薄な喜びになり易《やす》いが、お松のは、たしかにそうでなく、もはや、自分の立つ地盤の上に、この上のゆらぎは来ないだろうと思われるほど、自分ながら堅実を感ずるの喜びでありました。
 人生、喜びを感じない人はあるまいが、またその喜びの裏に、不安を感じないという人もありますまい。
 喜びが大きければ大きいほど、後の不安が予想される喜びに住みたくはないものです。
 お松は、自分の生涯が、もうこれで定まったとも感じません。これより後の前途は、平々淡々なりとも安んじてはいないが、少なくともこの道路に、これより以上の陥没はない、これよりは地を踏みしめて行くだけが、自分の仕事である――というような心強さは、ひしと感じています。

 夜になると、お松は夜ふくるまで針仕事をしていることがあります。
 道場の方で藁《わら》を打つ音。それと共に縷々《るる》として糸を引くような、文句は聞き取れないながら断続した音律。お松は針先を髪の毛でしめしながら、
「また、与八さんがお経をはじめた」
 与八が東妙和尚からお経を教えられて、しきりにそれを誦《ず》しているのは、今に始まったことではありません。
 それは何のお経だか、与八自身も知らないはずです。或る時、東妙和尚に尋ねてみたら、和尚のいうことには、
「お経はわからないで読んでこそ有難味がある、ただ、有難いという有難さをみんな集めたのが、このお経だと思って読みさえすればよい、お経がわかると、有難味がわからなくなる」
 そう言われたから与八は、言われた通りに信じて、わからないなりに誦していることを、お松はよく
前へ 次へ
全26ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング