転じて大正年間、生存の美人画家……芳年系統の鏑木《かぶらぎ》清方、京都の上村松園、いずれも腕はたしかで、美しい人を描くには描くが、その美人には良否共に、魅力と、熱が乏しい。
その点に至ると、北野恒富の官能的魅惑の盛んなるには及ばない。
新進で、国画創作会の甲斐荘楠音《かいのしょうくすね》が、また一種の魅惑ある女を描くことにおいて、異彩ある筆を持っている。あの時の展覧会で見た三井万里の江島がなかなかよかった。
挿絵の方では、永洗《えいせん》系統の井川洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]《いかわせんがい》が、十年一日の如く、万人向きの美人を描いて、あきもあかれもせぬところは、これまた一つの力であり、年英《としひで》門下の英朋は、美人を描くことにおいては、洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]より上かも知れないが、その美人は、愛嬌《あいきょう》がなくてつめたい。近藤紫雲の美人にも、なかなか食いつきのいいのがある――
七兵衛は際限なく、浮世絵の過去と将来を論じているわけでもなんでもないのですが、相変らず例の一枚絵をながめているものですから、そんなふうにも見えるので、人は往々、物をいい、手を動かすと、すっかりボロの出るものでも、仔細ありげにだまってさえいれば、意外なかいかぶりをされるものがあるものです。
本人はその時分は、もう自分がいま見つめている絵のことなどは眼底から飛び去ってしまって、昨夜の城内の光景が、まざまざと頭のなかに浮び出でて、われを忘れていたのですが、その瞬間、「ハッ」としてわれに返ったのは、今まで人の気《け》というものはなかったところへ、さりとは、あまりに荒々しい戸のあけ方でありました。
七
その物音で、すっかり空想をブチこわされた七兵衛。
夢から醒《さ》めたような顔をして、きょとんとその入口の方を見てあれば、そんなことはいっこう御存じなしに、数多《あまた》の人足が、店の土間へしきりにこも[#「こも」に傍点]包を投げ込んでいる。
鮭のこも[#「こも」に傍点]包にしては長過ぎる。土間へ当りの響きで見ると、金物であるらしい。
土間の左右へ人足がそれを積込んでいると、そのあとから抜からぬ顔で入り込んで来たのは、アツシを着た十五六歳の少年で、耳に仔細らしく矢立の筆をはさみ、左右に積み分けたこも[#「こも」に傍点]
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