三百女郎としか踏めねえ」
 ニヤリと、皮肉に笑いました。
 その絵は、供をつれた奥女中の一枚絵で、あんまり上等の浮世絵とはいえない。英山、英泉あたりの末流の筆に成って、彩色だけは人目をひくように出来ている。
 けれども、このことから七兵衛は、江戸城の大奥の間取りを見て来てくれ、なんぞとたのまれたことを思い出したものですから、わざと、そのつまらない浮世絵が、当座の興味を惹《ひ》いたと覚しく、コツの三百女郎にしか踏めないという奥女中の浮世絵も、腹も立たないで見ていました。
 七兵衛は、美術眼があるわけでもなんでもないが、奥女中は奥女中らしい気品とうま味が出ないものかなあと、淡い不満をいだいてこの絵を見ているだけのもので、頭の中に往来するのは、やはり昨晩、あれからこれまでの、自分のした仕事の吟味と、咀嚼《そしゃく》とであります。
 だが、やはり、七兵衛の眼は、その奥女中の一枚絵に向ったきりでありますから、よそから見れば、相当のたんのうなる鑑識家が、批評的にこの絵を吟味しているとしか見えないのであります――
 おれはいったい、美人と、美人画では、誰のがいちばん好きなんだろう。上代のことはいわず、比較的近代について見ると、狩野家《かのうけ》にはもとより、円山、四条にもすぐれた美人かきはいないようだ。何といっても、美人画は浮世絵の畑だろう。もっとも美人というものの標準も、ちょっと問題ではあるが、人好きのする美人は、まず浮世絵と限ったものだろう……ところで、その浮世絵の美人も品々だが、いずれあやめという時は……左様、まずまあ鳥居派で清長、それから北川派では歌麿。
 清長にはしっかりしたところがある。歌麿は少しだらしないがたまらない。清長を本妻に、歌麿をお妾《めかけ》としたら申し分はなかろう。
 細田|栄之《えいし》――あれはさすがに出がお旗本の歴々だけあって、女郎をかかしてもなんでも、ずっと気品があるが、そうかといって、大所帯向《おおしょたいむ》きのおかみさんにするには痛痛し過ぎる――といってまた、並大抵のものが妾にしては位負けがする……そんなら勝川派はどうだね、何といっても春章はたしかなものだ。清長より少しやさし味があって、歌麿ほどにだらけてはいない。栄之のように上品向きでもないから、まず、相当の大家の御内儀として申し分はない方だけれども、いずれにしても、この辺を女房にするには
前へ 次へ
全126ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング