してやれ、という気になりました。幸い、額をあつめて、絵図面の研究にわれを忘れているのがいい機会だ。
 そこで七兵衛は、彼等のうしろへ手を延ばして行って、まず、かぎ縄をそっと奪い取り、次にめいめいの革袋を、そっと引きずって来て、動静いかにとながめている。
 絵図面の上に一応の思案を凝《こ》らした一行は、いざとばかりに、ろうそく[#「ろうそく」に傍点]の火をふき消して立ち上ったのは、いよいよ早まり過ぎたことで、四方を暗くして後に、かぎ縄がない、燧袋《ひうちぶくろ》がない、あああの中に大切の摺付木《マッチ》を入れて置いたのだが――とあわて出したのは後の祭りであります。暗中で彼等はしきりに地上を撫で廻してダンマリの形をつづけたが、結局、ないものはない。
 さすがの大胆者どもも、顔の色をかえたことは、その語調の変ったことでわかっている。そのささやき具合の狼狽《ろうばい》さ加減でわかっている。かぎ縄は、まんいち途中で落したかの懸念もないではないが、摺付木に至っては、現在このところで、ろうそく[#「ろうそく」に傍点]に火をつけ、あまつさえ、その火を煙草にうつしてのんだではないか――申しわけにも、途中で落したとはいえない。ろうそく[#「ろうそく」に傍点]は空しく手に残るが、それに点ずべき手段がない。
「何たるブザマなことだい、これじゃあ、一足も動けない」
「帰るに如《し》かず……」
「帰りもあぶないものだ」
 彼等は、暗い中で途方にくれているらしい。
 こうなっては、杖《つえ》を奪われためくら同様で、引返すよりほかはあるまいが、その引返しでさえ、うまく行くかどうか。
 しかし、それは案ずるほどの事はなかったと見えて、この四人の一行は、それから間もなく、無事に江戸城外へ抜け出してしまって、八官町の大輪田という鰻屋《うなぎや》へ来ていっぱいやっているところを見ると、七兵衛が推察通り、薩摩屋敷の注意人物に相違ない。
 この時は、無論、忍びの装束なぞはどこへかかなぐり捨てて、いずれも素面で、いっぱいやっているところは、何のことはない、丸橋忠弥を四人並べたようなものです。
「ほかのものはとにかく、摺付木《マッチ》をなくしたのが惜しい」
と忠弥組の一人、落合|直亮《なおすけ》がいう。
 その当時、長崎から渡って来たばかりのマッチは貴い。
「品物を手に入れて置いて、ろうそく[#「ろうそく」に傍点
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