別製の油でもつけさえすれば仕事が済むのだと、無雑作《むぞうさ》に考えて、先生の頭へ櫛《くし》を当てようとすると、
「待ってくれ――少し註文があるですからね」
と右の手を上げて、合図をしました。
ぜひなく床屋が、櫛をひかえて、先生の註文を待っていると、
「ところで、床屋様、わしは今日から百姓になりてえんだよ……武者修行はやめだ、やめだ」
と言いましたから、床屋はよくのみ込めないでいると、道庵が、
「うまく百姓にこしらえてくんな! 茨木屋《いばらぎや》のやった佐倉宗五郎というあんべえ式に、ひとつやってくんな!」
「お百姓さんのように、髪を結い直せとおっしゃるんでございますか、旦那様」
「そうだよ、すっかり百姓|面《づら》に、造作をこしらえ直してもらいてえんだよ」
そこで床屋は変な顔をしてしまいました。
見たところ、相当に品格もある老人で、少々時代はあるが、塚原卜伝の生れがわりといったような人品に出来ているから、相当の敬意を以て接してみると、口の利き方がゾンザイであったり、いやに御丁寧であったりして、結局、この惣髪を、普通の百姓に見るような髷《まげ》に直してしまえ、と註文であります。
床屋が当惑しているに頓着なく、道庵は、鏡に向って気焔を吐き、
「百姓に限るよ、百姓ほど強い者はねえ……いざといえば、誰が食物を作る。食物を作らなけりゃ、人間が活《い》きていられねえ。その生命の元を作るのは誰だ――と来る。この理窟にゃ誰だってかなわねえ、武者修行なんざあ甘《あめ》えもんだ、おれは今日から百姓になる!」
さては先生、先日の芝居で、信州川中島の百姓たちが、大いに農民のために気を吐いたのを見て、忽《たちま》ち心酔し、早くも武者修行を廃業する気になったものと見えます。
つまり先生の考えでは、武芸で人をおどすなどはもう古い、食糧問題の鍵をすっかり自分の手に握って置いてかからなければ、本当の強味は出て来ない――というようなところに頭が向いて、自然、一切の造作をこしらえ直す気になったものと見えます。
床屋は、やむなく、註文を受けた通りに造作にとりかかる。惣髪は惜気もなくそり落して丸額《まるびたい》にし、びん[#「びん」に傍点]のところはグッとつめて野暮《やぼ》なものにし、まげのところも、なるべく細身にこしらえ上げて、やがてのことに、百姓道庵が出来上ってしまいます。
道庵つくづ
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