「叱られるだろう?」
「だって、あそこは静かでいいもの……」
「騒がしいとこはいや?」
「ええ」
「では、どうして胡琴《こきん》をひいたり、あたしに歌をうたわせたりするの?」
「その時は、その時でね」
「ふだんは、静かなところがいいの?」
「ええ……だから殿様のいない時にばかり、あのお部屋へ行って寝るの」
「そう」
 茂太郎はまだ心もとない顔をしながら、その問答の一くさりはともかく、それで一段落になると、また、
[#ここから2字下げ]
可愛い由松だれと寝た
だれと寝た
お父さんと寝たなら
よしよし
[#ここで字下げ終わり]
 一つことを歌い出すと、、二度、三度、口をついて出るのがこの少年の癖であります。
 その歌は、例によってでたらめではあるが、それはいつ、何の時、どこかで一度は鼓膜に触れたことのあるものが、順序不同に口をついて出るのだから、あながち創作ともいえますまい。そこでちょうど、巻かせた糸の一たばが終りになりました。
「どうも御苦労さま」
「お嬢さん、殿様が浪人をするのは、何か悪いことをしたんだろう?」
「いやだ、悪いことなんかする殿様じゃありませんよ」
「だッて悪いことをしなければ、浪人するはずがないじゃないか?」
「そうとばかりは、言われなくってよ」
「それでも、立派に殿様でいられる人が、浪人をするのは、つまり何か悪いことをして、免職になったんじゃない?」
「そんなことがあるものですか」
 兵部の娘は、無意識に駒井の弁護をしてきたが、思うように茂太郎の耳には響かないと見えて、
「いい人だってお前……いい人だって、悪いことをすることもありまさあね」
 茂太郎から先手を打たれて、兵部の娘は、ちょっと二の句が継げなくなりました。
 なるほど、そういわれてみれば、そこに疑いの余地がないではない。ドコといって非点の打ちようのない殿様が、その位地を去らねばならぬまでの事情を、聞いてもみなかったし、考えてもみなかったが、茂太郎から、かりそめに疑われて、はじめて疑いの心が起りました。
 だが、この疑いも、自分の弱味を疑われでもしたかのように、何か、弁護の口実を発見しようとあせった揚句、
「それでもお前……天神様をごらん」
「え?」
「天神様をごらんなさいな、菅原道真公を。天神様はあの通りのいいお方でしょう、それでさえ筑紫《つくし》へ流されたじゃありませんか、時平公《し
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