れでおしまいになったのではありません。
わたしは、まだまだこれから山々の歌をつくりたいと思っていますが、歌を作るのは、手紙を書くのよりも時間がかかります。
わたしは、この手紙を書くのと、歌を作るのとの興味に駈《か》られて、この二三日というものは、炉辺の皆さんの学問にも、お話の席にも、顔出しをしませんものですから、みんな変に思っているかも知れません。
そういうと何ですけれども、わたしは、これでも歌を作ることに見込みがあるんですって。池田先生が、お世辞ではないと、大へんにほめて下すったものですから、このごろは、筆をとって歌を思い、手紙を書こうとすると、ほんとうに夢中になってわれを忘れてしまいます――
静かな温泉にいて、山を見たり、水をながめたり、そうして、ひまがあれば歌や、手紙を書いているわたしのただいまの生活を、あなたは羨《うらや》ましいと思う……それは違います。
わたしは苦しいのです、いわば苦しまぎれです。夜になると、わたしは夢の中で――さいなまれ、いじめられ、弄《もてあそ》ばれ、――ああ、それは言いますまい、思い出すさえ浅ましい。

弁信さん――
今日も、わたし、あの離れ岩の上に立って、じっと無名沼《ななしぬま》の水を見つめておりました。
その時のわたしは、いつもと違って、無心に、あの水の色と、絹糸のような藻に、みとれていたのではありません。
わたしはこの無名沼を歌によみたいと思って、われを忘れておりましたのです。
そこで、わたしは、短い歌を三つばかり考えましたが、どうも、まだ言葉が足りないので、しきりに工夫を凝《こ》らしておりましたものですが、沼の水の色も、自分の立っている離れ岩のことも、その離れ岩の不祥な思い出のことなんぞも、すっかりその時に忘れ果て、ただ歌にばかり夢中になっておりました。
そうすると、不意に後ろから、わたしの肩を押えるものがあるので、わたしは、倒れるばかりに驚かされてしまいました。
『あ……どなた?』
たしかに、わたしの人相まで変っていたことでしょう。
ところがその人は案外に、
『は、は、は、は……』
と高らかに笑いました。
その笑い声で、わたしは、はっと合点《がてん》がゆきましたが、同時に、今の恐怖は飛び去るようになくなってしまいました。その笑い声が、晴れた日に鼓《つづみ》でも鳴らすような、さえざえした陽気な笑い声で、この辺に、こんな陽気な
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