つまり、その人の病気が悪いので、お雪が心配して、自分も浮かぬ色になり、楽しみにしている炉辺の閑話にも出られないのだろうと、好意に解釈したり、想像したりして、この上もなく物足りないながら、わざわざ人をやって、お雪を招こうとはしませんでした。
ところが、一日たち、二日たつうちにも、お雪は容易にこの席へ再び姿を現わそうとはせず、そのくせ、抜け出すようにして、かなりのひとり歩きを試みて帰ることが多いようです。つまり、今まで社交を好むように見えたお雪の性格が一変して、なるべく人を離れて、ひとりほしいままにすることを好むような性癖に変ったと見れば、見られないことはありません。
十三
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「弁信さん……
今日はわたし、焼ヶ岳を見に参りましたのよ……」
[#ここで字下げ終わり]
お雪はまたしても弁信にあてての手紙を書き出しました。
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「弁信さん……
わたしは何につけても、かににつけても、あなたの名を呼びかけずにはおられません。
その次には、いつも茂ちゃんのことが気にかかります。
茂ちゃんをよく見て下さい。あの子は気ままにどこへでも行きますから、あなたの見えない目で、いつまでも見ていていただかないと、あの子はどこの空へ飛んでしまうかわかりません……
弁信さん――
何をおいても、わたしが、あなたの名を呼びかけずにはおられないように、あなたの名を呼びかけると、どうしても机に向って、この心のありのまま、思うままを書いてみないではいられません……
最初はただ、あなたにおたよりだけをしたい心持で、かりそめに筆を執りましたのですが、今となってみると、もうわたしは、これを書かずにはおられません。あなたのお手許《てもと》へ届こうとも、届くまいとも、あなたが見て下さろうとも、下さるまいとも、わたしはこの手紙を書かずにはおられなくなりました。
つまり、今のわたしは、手紙に書くために手紙を書いているようなものでございます。
用意に持って参りました白い紙は、だいぶ残ってはいますが、この分で、わたしが精いっぱいに書いたら、忽《たちま》ちそれがつきてしまうことは眼に見えるようです。用意の白紙がなくなったら、わたしは、ふところ紙でも、紙のきれはしでも、白いという白いものは大切にしようと、今から心がけています。もし弁信さんが近いところにいましたなら
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