この野郎、先刻は未練気もなく月見寺を出て行ったはずなのに、まだこんなところにひっかかっているところを見ると、何か思いきれないものが残っているのかも知れない。
「おれという野郎も、わからねえ野郎じゃねえか」
といって柄《がら》にもなく頬杖をついて、いささか悄気《しょげ》て見えるのは、近頃はどうも思うようにがんりき[#「がんりき」に傍点]の眼が出ないで、あっちへ行っては鼻を明《あ》かされ、こっちへ来てはヌカヨロ[#「ヌカヨロ」に傍点]をつかませられ、これも思いきれないで、血眼《ちまなこ》で東西南北を駈けめぐって、なにほどかモノにしようと焦《あせ》っているのが、兄貴の七兵衛の物笑いの種となるばかりでなく、御当人も、少しは気がさしたものらしい。
「さて今晩のところは……」
といって頬杖を外《はず》し、身を起しかけたのは、今晩これからの塒《ねぐら》の心配でしょう。
「うっかりドジを踏んで、粂《くめ》の親分にでも見つかろうものなら……事だ」
 百蔵は真黒な犬目山《いぬめやま》の方を横目に睨《にら》んで見たのは、この男にとっては、この郡内は最も危険区域であり、ことに鳥沢の粂《くめ》という親分には、頭も尻尾も上らないで、いつぞやは、裸にされて、甲州名代の猿橋の上から逆《さか》さまにつるされたことがある。その辺を心配してみると、この危険区域には、うっかり碇《いかり》を卸せなくなるはずです。
 で、結局、どう思案がついたか腰を浮かしながら、
「待てよ……あの寺で、おれの姿を見ると、慌《あわ》てて縁の下へ隠れたのは、ありゃ清澄の茂太郎だ」
とつぶやきました。なるほど、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの眼力《がんりき》で、子供の隠れんぼを見落すはずもあるまい。
 その時分、幸か不幸か茂太郎は、
[#ここから2字下げ]
いっちく
たっちく
ジンドコウ
[#ここで字下げ終わり]
 そういいながら、ちょうど、この宮の台の原へ馳《は》せ上って、ほとんど、がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼前|咫尺《しせき》のところまでやって来たものですから、
「おい――茂坊」
「おや?」
 清澄の茂太郎が、ギョッとして立ち止まりました。
「茂太郎」
「あ、お前は……」
「お前こそ、どうしてこんなところに来てるんだい、両国橋にいれば、ああして人気の上に祭り上げられて、栄耀栄華《えいようえいが》が尽せるのに、なんだってこんな山ん中へ逃げて来ているんだい。叔父さんと一緒に帰《けえ》らねえか、親方もお前を待ちきってるぜ、御贔屓筋《ごひいきすじ》もお前をさがしている。江戸へ行けば、お前は人気の神様で、金の生《な》る蔓《つる》を持っているのに、なんだってこんなところに隠れてるんだい。さあ、叔父さんと一緒に帰らねえか」
 悪獣毒蛇を恐れない茂太郎が、この時、面《かお》の色を真青《まっさお》にして返事ができませんでした。
 清澄の茂太郎は、アッとばかりに立ちすくんでしまいました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、立ち上って左の手で茂太郎の右の手首をつかまえてしまいますと、
「叔父さん」
 茂太郎は悲しい声を出しました。
「何だ」
「堪忍《かんにん》しておくれよ」
「堪忍するもしないもありゃしねえ、お前をよくしてやるんだぜ」
「だって」
「こんな山ん中に隠れているより、江戸へ出りゃあ――両国橋へ帰りさえすりゃあお前、いい着物を着て、うまいものを食べて、人にちやほやされて……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、やさしく言って聞かせるように、
「楽ができて、うまいものが食べられて、人からは、やんやといわれて、それでお金が儲《もう》かるんだ」
といいました。
「叔父さん、あたいは、この方がいいんだよ、こっちにいたいんだから……」
「何をいってるんだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、茂太郎の言い分をとりあわないのは、あながち、この子供のいやがるのを拉《らっ》し去ろうというのではなく、自分の推量で、つまり、いま言った通り、江戸へ帰りさえすれば、楽ができて、うまいものが喰べられて、いい着物が着られて、人から可愛がられるのに、こんな山の中へ拐《かどわか》されて来ているのを、不憫《ふびん》がる心もいくらかあるのです。だから、物やさしい声で、
「それから茂坊、お前には御贔屓《ごひいき》があることを忘れやしめえ。貴婦人――というのはなんだが、しかるべき後家さんや、御殿女中なんてのが、お前を可愛がりたがって、やいのやいのをきめていることを忘れやしめえ。叔父さんが話してやるから帰んな……よ、お寺へ話をしてやろう。お寺の誰に話をすりゃいいんだえ」
「叔父さん、御免よ、あたいは江戸へ帰りたくないんだから」
「わからねえことを言いっこなし」
「いいえ。じゃあね、叔父さん、弁信さんに相談して来るから、待っていて頂戴」
「弁信さんてなあ誰だい」
「あたいのお友達……今、縁側に腰をかけていたでしょう」
「あ、あの、小さい坊さんか」
「ええ、あの人に相談して来るから、待っていて下さい」
「それには及ばねえよ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、茂太郎の左の手を容易には放そうとしないで、
「おいらが行って話をつけて上げるから。もともとお前はこっちのものなんだ――こっちといっては少しなんだが……親方のところへ帰る分には、誰も文句のいい手がなかろうじゃねえか」
「でも……」
「いいッてことよ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は茂太郎の手を引張りました。
「ああ、弁信さあん」
 茂太郎は声をあげて助けを求めるの叫びを立てようとするのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が早くも、合羽《かっぱ》の中へ抱え込んでしまって、
「おとなしくしな」
 哀れむべし。清澄の茂太郎は、無頼漢《ならずもの》の羽掻《はがい》に締められて、進退の自由を失ってしまいました。せめて、口笛でも吹くだけの余裕があったならば、こういう時に、狼が来てくれたかも知れない。
 しかし、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵とても、この子供を、そうむごく扱うつもりでしているのでないことは、おおよその挙動でも知れる。誰かに拐《かどわか》されて、こんな山の中へ連れ込まれて、動きが取れないでいるのを、再び世に出してやるのだというくらいな腹はあるらしい。だから、むしろ親切でしてやるつもりが見える。
 そうして、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、清澄の茂太郎とは、どこかへ行ってしまいました。

 一方、弁信法師が狂気のように騒ぎ出したのは、それから後のことであります。
 弁信は、報福寺の提灯《ちょうちん》をともして、寺の門を駈け出して、
「茂ちゃあーん」
と幾度か叫び、幾度かころげましたけれども、返事とてはありません。
「茂ちゃあーん」
 宮の台の、たった今まで百蔵がいた石のところまで来て、またころんで起き上った弁信は、提灯を拾い取って見ると、幸いにまだ火は消えておりませんでした。
「茂ちゃん、どこへ行ってしまった、悲しい」
といって弁信が泣きました。
 もう呼んでも駄目だと思ったのでしょう、提灯をさげたまま、しょんぼりと、宮の台の原の真中に立ちつくしています。
「拐《かどわか》されたんだよ、連れて行ったのは、さきほどお寺を見に来た旅の大工だといったあの人に違いない、それだから茂ちゃんが隠れたのだ、わたしも訝《おか》しいとは思いました、訝しいとは思ったけれど、まさか……と油断していたのが過《あやま》ちでした」
 弁信は、なお暫くの間、そこに立ったままです。
 一時は気がつくと、ハッとして狂気のように驚いたけれども、その驚いた間にも、提灯をつけて飛び出したほどの弁信です。なぜならば、盲目《めくら》であり、勘のよいことにおいて倫《りん》を絶《ぜっ》している弁信自身が、提灯をつけなければ夜歩きのできないはずはないのです。それを、その際《きわ》どい場合にも、寺の名の入った提灯をつけて、そうして飛び出したほどの弁信ですから、いかなる感情の切迫の際でも、理性は冷静に働いているのです。冷静に働く理性と、判断力と、記憶力と、それに倫を絶した勘という直覚力が加わると、他に向ってあせることの愚なのを考えて、自らの能力に訴えることの有利なるを悟らないわけにはゆきません。
 弁信は、宮の台の原のまんなかに立って考えました。時々、その法然頭《ほうねんあたま》を左右に振りながら、そうして、せっかくの提灯の中の蝋燭《ろうそく》が、早や燃え尽きようとするのに、動き出そうともしません。
 ラジオ[#「ラジオ」に傍点]は現代の科学が発明する以前、何千万年の間、この空間に存在していたものであります。けれどもその時代には、各人がアンテナ[#「アンテナ」に傍点]を持つというわけにゆかず、ただ特殊の人だけが、それを聞くことができたのです。天才と修練とによって、透徹された心耳《しんに》を有する人は、この宇宙のラジオ[#「ラジオ」に傍点]を、アンテナ[#「アンテナ」に傍点]も、レシーヴァー[#「レシーヴァー」に傍点]もなしに聞くことができて、それを人間に伝えた時に、人間がそれを神秘とし、奇蹟としました。ある特殊の人は、いつでも、限られたる人の聞くことができない音を聞き、限られたる人の見ることのできない世界を見ているのです。ですから、経文《きょうもん》の世界は、大覚者にとっては夢の世界ではなくして、現実の世界です。
 ここにお喋《しゃべ》りの弁信法師は、暗中に立ってその特有のアンテナ[#「アンテナ」に傍点]を働かしている。
 提灯《ちょうちん》は、とうとう消えてしまいました。蝋燭《ろうそく》がその使命を果して、光明の犠牲を払い尽したから……しかし、それが弁信法師にとってはなんでもありません。光明には光明の使命があり、暗中には暗中の自由がある。特に弁信にあっては、明暗二つの差別が意味をなしません。
 その翌日になると弁信法師は、しょぼしょぼとして檀家《だんか》廻りをはじめました。
「ええ、皆様のおかげで、長々と御厄介になりましたが、昨晩、茂太郎の行方《ゆくえ》がわからなくなりましたものですから、私はこれから、それをさがしに参らねばなりません、お雪ちゃんの帰るまでは、とお約束をしたようなものですけれども、これも余儀ない事情でございますから、あとのところをよろしくお願い申しますでございます……御縁があらば、また直ぐに立帰って参りますが、御縁がないならば、これがお別れになるかも知れません」

         二十九

 信濃の国、白骨の温泉の宿の大きな炉辺で、しきりに猪を煮ているのは、思いがけなく繰込んで来た五人連れのお神楽師《かぐらし》と称する一行のうちの、長老株の池田といった男と、それからもう一人は、北原という同行の男――他の三人の姿の見えないところを以てすると、それは安房峠《あぼうとうげ》を越えて、飛騨《ひだ》の方面へ行ってしまったのかも知れない。
 残された二人は、悠々寛々《ゆうゆうかんかん》として猪を煮ているところを見れば、この二人だけはここにとどまって、冬を越すの覚悟と見える。
「こんにちは。なかなかお寒うございますね」
 そこへあいそうよく入りこんで来たのは、お雪ちゃんです。
「おや、お嬢さん、おあたりなさいまし」
と北原が、薪を折りくべながらいいますと、
「御免下さいまし」
 いつか、相当の馴染《なじみ》になっていると見えて、お雪はすすめられるままに、炉辺へかしこまり、
「先生」
と言って、池田の方へ向きました。
「え」
 長い火箸で火を掻《か》いていた池田は、お雪ちゃんから、思いがけなく先生と呼ばれたので、ちょっと驚いた眼つきをすると、
「少々、お願いがございますのですよ」
 お雪は相変らず人懐《ひとなつ》こい言葉づかい。池田は少々恐縮の色で、
「何ですか、改まって、私を先生とお呼びなすったり、お願いだなんておっしゃったり、痛み入りますよ」
という。
「いいえ、お隠しになってもわかっておりますよ、守口さんがお帰りの時にそうい
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