いのだ、と気がつきました。
 花にも、手際にも、難があるのではない、この室そのものが、花と、手際とにそぐわ[#「そぐわ」に傍点]ないのだ。つまりこの室が悪いのだという結論になりました。
 ですから、この室を作り変えない以上は、この花に得心がゆくべきはずがない。室を作り変えるのは、家を作り変えるのだ。問題が、そこまで行くと、お銀様も不本意ながらこのままで安んずるほかはありません。
 そんならば、この室のどこが悪いのだ、一見したところで、無理に作られているとも思われない。仔細に見たところで、世間並みの書院造りの手法様式と変ったものが、あろうとも思われないが、どうも気分そのものが気に喰わない。
 と思って、見廻しているうち、ふと、お銀様の眼にとまったのは、床の間に立てかけであった、長い白鞘物《しらさやもの》です。これは、お寺の床の間には似つかわしからぬもので、今までお銀様が気がつかなかったのは、燈火《あかり》の具合で、隅の柱に隠形《おんぎょう》の印《いん》をむすんでいたからです。
 お銀様は、ようこそあれと、その白鞘の長物をとって、自分の膝の上まで持って来ましたが、やがて行燈《あんどん》の下で、半分ばかり鞘を抜き出してながめ入ったものです。
 この時とても、お銀様はいつもするように、頭巾《ずきん》をまぶかにかぶっていたし、山をのがれてきたのにかかわらず、着物の着こなしは端然たるものです。
 お銀様の眼が怪しくかがやきだしたのは、それから後のことで、息をはずませながら、刀をもとのままにおさめて、もとあったところへ置く手先がふるえているのも不思議でしたが、刀を置いた手を、すぐに棚の戸にかけて、スルスルと押し開くと、中をながめていましたが、手をさしのべて、中から引き出したのは、若い娘などの持ちたがる蒔絵《まきえ》の香箱《こうばこ》であります。
 それを、大事そうに、以前のところまで持って来たお銀様は、嫉《ねた》むような目つきと、おそれをなすような胸のさわぎで、箱の蓋《ふた》を払って見ましたが、中にはやわらかな紙が二三枚、丁寧にたたんで入れてあるだけのものでした。
 これは、水につけて蔭干しにして、やわらかくもみ上げた奉書の紙で、これで刀剣の中身をぬぐうのだとは、お銀様もちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いているので、かたえに刀剣がある以上は、ドコかにこれがなければならない――
 それは、家があれば台所のあるのとおなじことで、お銀様も、幾度か、机竜之助のために、この紙を用意してやった覚えがあるのですが、現在、ここにあるこの紙は、お銀様がこしらえてやったものではありません。
 そう思って見ると、自分が常にこしらえてやったものよりは、揉み方がやわらかである――お銀様は、急にその香箱を持って、自分の鼻先に持って来ると、紛《ぷん》として立ちのぼる香りは椿油の香いであります。椿の油は、刀剣を愛する人の好んで用うるものであると共に、髪の毛の黒いことを望む女の人は、誰でもこれを珍重しますから、ドチラにしてもその香いは不自然ではありません。
 けれども、お銀様は、その油の香いが嫌でした。この場合、お銀様には、奉書の紙の揉《も》み方のやわらかいのが癪《しゃく》にさわったと見え、この紙を取り上げてズタズタに引裂いた時です、
「お嬢様――」
と弁信法師のおとずれの声が聞えたのは――
「はい」
 お銀様は引裂いた紙を、従容《しょうよう》として香箱の中に詰めながら返事をしました。
「弁信さんですね」
「ええ」
と答えたその弁信は、この室へ入って来たのではありません。それは次の間にいるのだか、また廊下の辺にでもたたずんでいたか、夜来て、夜この室に入ったお銀様には、更に見当がつきません。
「お嬢様」
 再びお銀様の名を呼んだ弁信は、前の通りどこにいるか、所在を知らせないで、
「あなたが、何のためにここへおいでになって、何を、私におたずねになろうとするのか、それは、私にようくわかっております。しかし、お嬢様、たとい、あなたがおたずねになろうとするほどのことを、私がいっさい存じておりましたにしても、それを残らず申し上げねばならぬという責《せめ》は、私にないものと御承知下さいまし……つまり、私は、あなたがこれへおいでになって、私にお尋ねになろうとすることに、いっさい御返事を申し上げないことに、きめてしまいました」
 何も尋ねられない先に、弁信はこういって予防線を張ってしまったのは、尋ねられないまでも、その先、その先をいってしまいたがるこのお喋《しゃべ》り法師としては、異数の現象でありました。
「それでは無理におたずねは致しますまい」
とお銀様が冷やかに答えましたが、
「お前が教えてくれなくても、わたし一人で探してみせるから……」
と針をふくんでいいかえしました。しかし、この針も弁信法師の胸には立たず、
「すべての女の人は、男を畏《おそ》れますけれども、あなたは男を畏れるということを知りませぬ、通例の場合では、女一人を男の前へ出すことは危険でございますが、あなたに限っては、女の前へ男を出すことがあぶないのでございます」
 弁信法師一流のいい廻しで、前提を置き、言葉をついで、その註釈を述べようとする時、
「今晩は……」
とその間へハサまったのは、それは弁信の声ではありません。お銀様の挨拶でもありません。清澄の茂太郎が、自分の身体が押しつぶされるほどの夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を荷《にな》って、お銀様のいるところへやって来たのです。
「御苦労さま」
とお銀様が言いました。
「ああ、重たかった」
 夜具蒲団を頭から投げおろした茂太郎が、ホッと息をつく有様を、お銀様がつくづくとながめて、
「随分重かったでしょう、よく、これだけ持てましたね」
「随分重かったよ……どちらへお休みになりますか」
といって、茂太郎は座敷の部分を、キョロキョロみまわしますと、
「ええ、ようござんす、そうして置いて下さい」
「そうですか、それじゃ枕を持って来て上げましょう」
 茂太郎は取ってかえしました。
 お銀様は立って、その蒲団を程よいところへしきのべた時分には、弁信法師のことはわすれていました。弁信もまた、それきりで、どこにいたのだか、どこへ行ったのだか、最初からわからないままです。
 まもなく一つの箱枕を持って来た清澄の茂太郎は、燃ゆるばかりの緋絹《ひぎぬ》の広袖の着物を着ていました。
 そこでお銀様が、
「たいそう綺麗《きれい》な着物を着ていますね」
「ええ、もとは坊さんの法衣《ころも》だったのです、それをお雪ちゃんが、あたいに拵《こしら》え直してくれました」
「そうですか」
 茂太郎は今、下着には、あたりまえの袷《あわせ》を着て、その上へいっぱいに緋絹の広袖を着ているのですから、その異形《いぎょう》のよそおいが、たしかに人の目を引きます。けれども、その緋絹が無用になった坊さんの法衣《ころも》を利用したものと思えば、出所が知れているだけに、不思議でもなんでもありません。
「お雪ちゃんというのは、あなたの姉さんですか」
 お銀様は、この子供の言葉尻を利用することを忘れませんでした。
「いいえ、お雪ちゃんは、ここのお寺の娘さん分ですよ」
「そうですか。そのお雪ちゃんは、いまもここにいて……?」
「いいえ……」
 茂太郎が頭を振るのを、お銀様は透《す》かさず追いかけました。
「此寺《ここ》にはいないの?」
「ええ、この間までいましたけれど……」
「この間まで……そうして、今どこへ行ったの?」
「温泉へ行きました」
「温泉へ……?」
「ええ」
「どこの温泉」
「さあ……」
 お銀様の追窮が急なので、茂太郎に困惑の色が現われましたから、お銀様も、ちょっと手綱《たづな》をゆるめる気になって、
「お雪ちゃんという娘さんは、幾つぐらいのお歳なの」
「そうですね、あたいは聞いてみたこともないんだけれど……十七か八でしょう」
「そうして、お雪ちゃんは誰と温泉へ行きました」
「誰とだか……」
「お前、知らないの?」
「ええ。だけども、一人で行ったんじゃないんだよ」
「一人じゃないの、幾人で?」
「三人連れで……」
「その三人は、誰と誰?」
 お銀様の追窮が、やっぱり急になってゆくので、茂太郎の困惑が重なるばかりです。
「それは、わかってるにはわかってるが、弁信さんが、いうなといったからいわれない」
「そう……」
 お銀様も、それ以上は押せなくなりました。しかし、これだけ聞けば、全然得るところがなかったとはいえない。
 そうするとお銀様は、十七八になるお雪という娘の骨を、食い裂いてやりたいほど憎らしくなりました。
「おばさん、お前はなぜ頭巾《ずきん》をかぶっているの……?」
 その時、不意に茂太郎が反問しました。
「これはね――」
 お銀様は行燈《あんどん》の方へまとも[#「まとも」に傍点]に面《おもて》を向けて、
「お前さん、わたしの面《かお》を見たいの?」
といいました。
「見たかないけれど、家の中で頭巾をかぶっているのはおかしいじゃないか」
「お前、おばさんの面《かお》が見たいんでしょう、見たければ見せて上げましょうか」
「見たかないけれど……」
「見たいんでしょう……」
といって、お銀様は膝を進ませて茂太郎の手を取りました。
「見たければいくらでも見せて上げるから、この頭巾の紐《ひも》を解いて頂戴……」
「だって……」
「いい児だから解いて頂戴……」
 お銀様は茂太郎を膝の上へ抱き上げ、そうしてあわただしく自分の頭巾を取ってしまいました。
「おばさん、何をするの」
 清澄の茂太郎がもが[#「もが」に傍点]くと、お銀様は、
「何もしやしません、わたしは鬼子母神《きしもじん》の生れ変りですからね」
といって、放そうとはしませんから、
「いやだ、いやだよ、おばさん」
「怖《こわ》かありませんよ、鬼子母神は人の子を取って食べるのですけれども、わたしは食べやしません、可愛がるだけなのよ、わたしは千人の子供を可愛がってみたい」
「いやだってば、おばさん」
「いいのよ、わたしの面《かお》をごらん」
「え」
といって茂太郎は、頬摺《ほおず》りをするほどさしつけたお銀様の面《かお》を見つめると、
「怖《こわ》い面でしょう、わたしの面は……」
 人に隠して見せまいとつとめた自分の面を、この時に限ってお銀様は、打開いて茂太郎に見せようとします。
 満面が焼けただれて、白眼勝《しろめが》ちの眼が恨みを含んで、呪《のろ》いそのもののような面をまとも[#「まとも」に傍点]に見た人は、誰でもゾッとして身の毛をよだて[#「よだて」に傍点]ないものはありません。しかし茂太郎は、それを怖れないでうるさ[#「うるさ」に傍点]がり、
「怖かありません、おばさんの面は怖くないけれども、こうやって抱かれるのが窮屈でならない、放して下さい」
「お前、ほんとうに、わたしの面を怖いとは思わない?」
 お銀様は、なお、おびやかすように茂太郎の面に、呪いそのもののような自分の面を見せようとすると、
「怖かありません、あたいは人の怖がるものを怖がらないけれど、窮屈なことがいちばんきらいなのよ」
「いいえ、おばさんの面はこわい面でしょう、それにくらべるとお前の面は、綺麗な面ね」
「いいえ、怖かありません、あたい蛇だって、狼だって、何だって怖いと思ったことはないけれど、人に可愛がられるのが大嫌いさ、息が詰まるんだもの……」
「お前の名は何というの?」
「清澄の茂太郎」
「茂ちゃんていうの」
「ああ、おばさん、放して頂戴よ、息苦しくて仕方がないからさ」
「おとなしくして、鬼子母神様《きしもじんさま》の子におなりなさい」
「放して下さい、ほんとに熱苦しいんだもの……よう、おばさん」
「おとなしくしておいで――」
「いやだ、いやだ……おばさん、何をするの、放さないの?」
「わたし一人で淋しいから、茂ちゃん、泊っておいでなさいな」
「息が詰まるじゃないか、おばさん、どうしても放さなけりゃ、あたい、口笛を吹いて狼を呼ぶからいいや」
「何ですって、狼を呼ぶ……?」
「あ
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