怪我《けが》をなさらないようになさいまし」
「有難う。それから弁信さん」
「はい」
「お前さんは、お銀様という人を知っているだろうね」
「お銀様――ああ、知っておりますよ、それがどうしましたか」
「その方を、わしが連れて来ましたよ」
「お銀様を連れておいでになった……勘八さん、お前こそ、どうしてお銀様を知っているのですか」
「山の中で拾って来ました」
「拾って……それは、どうしたわけでしょう」
「委《くわ》しいことは、お銀様から直接《じか》にお聞きなすったらいいだろう」
「本人のお銀様を、お前さんがここへ連れておいでになったのですか、そうしてお銀様はドコにおいでになりますか」
「いま、庫裡《くり》の方へ御案内をして上げておいたから、お前、行って、お目にかかっておやりなさい」
「有難うございます……そうしてなんでございますか、勘八さんがお連れ下すったのはお銀様だけでございますか、それとも、あの若いおさむらい[#「さむらい」に傍点]の方も御一緒にお帰りになりましたか」
「あの方は、けえ[#「けえ」に傍点]りません、お銀様だけ一人連れてきました」
「そうでしたか……お銀様のこれへおいでになった理由は、私にも思い当ることがないではございませんが……」
といって弁信は、何か思案にくれました。
三
月見寺の一室に控えているお銀様は、ふと床の間に目をつけて、その草花を生《い》け替える気になりました。
というのは、青銅の大花瓶に乱雑に投げ込んである秋草は、多分清澄の茂太郎あたりの仕事だろうが、無論、式にも法にもかなってはいない。そこで、お銀様が見かねて、それを整理する気になったのです。
かなり丹念に、花と枝を整理してゆくと、見ちがえるばかりのあざやか[#「あざやか」に傍点]なものとなりました。
それでもお銀様は、まだ不足なものがあるように、活《い》け終った草花を、ためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]して、ながめていること暫し、ここといって改めたいところはないが、そうかといって、これだけでは物足りない心持を、どうすることもできないらしい。
これは、どうしたものだろう。お銀様は、花を活ける手際には、相当の自信を持っているつもりなのに……
結局、これは、自分の活け方の悪いのではない、この方式で活けた花は、この室内にはうつら[#「うつら」に傍点]ないのだ、と気がつきました。
花にも、手際にも、難があるのではない、この室そのものが、花と、手際とにそぐわ[#「そぐわ」に傍点]ないのだ。つまりこの室が悪いのだという結論になりました。
ですから、この室を作り変えない以上は、この花に得心がゆくべきはずがない。室を作り変えるのは、家を作り変えるのだ。問題が、そこまで行くと、お銀様も不本意ながらこのままで安んずるほかはありません。
そんならば、この室のどこが悪いのだ、一見したところで、無理に作られているとも思われない。仔細に見たところで、世間並みの書院造りの手法様式と変ったものが、あろうとも思われないが、どうも気分そのものが気に喰わない。
と思って、見廻しているうち、ふと、お銀様の眼にとまったのは、床の間に立てかけであった、長い白鞘物《しらさやもの》です。これは、お寺の床の間には似つかわしからぬもので、今までお銀様が気がつかなかったのは、燈火《あかり》の具合で、隅の柱に隠形《おんぎょう》の印《いん》をむすんでいたからです。
お銀様は、ようこそあれと、その白鞘の長物をとって、自分の膝の上まで持って来ましたが、やがて行燈《あんどん》の下で、半分ばかり鞘を抜き出してながめ入ったものです。
この時とても、お銀様はいつもするように、頭巾《ずきん》をまぶかにかぶっていたし、山をのがれてきたのにかかわらず、着物の着こなしは端然たるものです。
お銀様の眼が怪しくかがやきだしたのは、それから後のことで、息をはずませながら、刀をもとのままにおさめて、もとあったところへ置く手先がふるえているのも不思議でしたが、刀を置いた手を、すぐに棚の戸にかけて、スルスルと押し開くと、中をながめていましたが、手をさしのべて、中から引き出したのは、若い娘などの持ちたがる蒔絵《まきえ》の香箱《こうばこ》であります。
それを、大事そうに、以前のところまで持って来たお銀様は、嫉《ねた》むような目つきと、おそれをなすような胸のさわぎで、箱の蓋《ふた》を払って見ましたが、中にはやわらかな紙が二三枚、丁寧にたたんで入れてあるだけのものでした。
これは、水につけて蔭干しにして、やわらかくもみ上げた奉書の紙で、これで刀剣の中身をぬぐうのだとは、お銀様もちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いているので、かたえに刀剣がある以上は、ドコかにこれがなければならない――
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