くなるのがあさましい。かりそめにしめあげた腕はゆるめなければならないのに、人間の肉が苦しみもがく瞬間の、はげしい運動と、熱い血潮に触れると、むらむらとして潜在の本能がわき上ります。
「苦しいか」
「く、く、苦……」
後家さんは、必死となって竜之助の腕にすがって、その蛇のような腕を振りほどこうともがいたが、それは、さいぜん予告しておいた通りに、もがけばもがくほど深く入るだけで、力を入れるそのことが、いよいよ敵に糧《かて》を与うる理法となっていることを知らない。
はっ! と落ちたか、落ちない時に、それでも竜之助は手を放しました。手を放すと、肥満した女の骸《むくろ》が、朽木《くちき》のように、自分の足もとに倒れたことを知りました。
しかし、それは、ほんの少しの間たつと、倒れた後家さんは半眼を見開いて、
「先生、あんまり酷《ひど》い」
といいました。死んだのではなかったのです。
「あんまり酷いじゃありませんか、殺さなくってもいいでしょう、お雪ちゃんに教える時にも、こんなになさったの……?」
半醒《はんせい》のうちに、後家さんは、竜之助に怨《えん》じかけました。地獄をのぞいていまかえった人というような見得《みえ》で……
それから、やがてまた二人が相並んで、林の中をそぞろ歩きして行くのを見かけます。
その時分、林のあなたでは、またも男妾《おとこめかけ》の浅吉が烈しく呼ぶ声、
「お内儀《かみ》さん、どちらへおいでになりましたんですよ、一人歩きは危のうございますよ、お迎えに上りましたよ」
多分、二人の耳には、以前から、その金切声が再々入っているはずですけれども、あえて耳を傾けようとはしませんでしたが、
「お内儀さあ――ん」
そこで後家さんが小うるさくなって、
「気が違やしないか知ら、浅公――」
とつぶやきました。
しかし、その浅公も、もうかなり呼び疲れたと見えて、それからしばらく呼び声が絶えてしまいました。
「ねえ、先生、そういうわけですから、意気地なしほど思い込むと怖いかも知れませんよ。用心のために……殺しちゃいけませんよ、今のように殺さないで、殺しに来るのを避ける法を教えて下さいましな、あれを外《はず》す仕方を教えて下さいましな」
といって、もうケロリとして、今の苦しかった地獄の門を忘れてしまったようです。事実、或いは苦しかったのではないかも知れない。上手にしめられると苦しいと感ずるのは瞬間で、それから後は恍惚《こうこつ》として、甘い世界に入るように息がとまってゆくそうな。こういう図々しい女は、再びその甘い死に方をして、また戻って来る気分を繰返してみたいのかも知れない。
「それを外《はず》すのは雑作《ぞうさ》もない」
といって、竜之助は再び後家さんの首を後ろから締めにかかると、
「先生、殺しちゃいけませんよ」
今度は後家さんも覚悟の前ではあるし、竜之助も心得て、以前ほど強くは締めず、ゆるやかにうしろから手を廻して、
「これをこうすれば袖車《そでぐるま》……」
「もっと強く締めて下さい」
その時、サッと木の葉をまいて、風のような大息をつきながら、そこへ馳《は》せつけたものがありました。
「お、お、お、お、お内儀《かみ》さん――」
真蒼《まっさお》になって、ほとんど口が利《き》けないで、そこに踏みとどまりながら、吃《ども》っていましたから、竜之助も手をゆるめ、後家さんも向き直って見ると、それは男妾の浅吉でありました。
「お内儀《かみ》さん、あぶない――」
「浅吉、お前何しに来たの?」
「え、え」
「何しに来たんですよ、たのまれもしないに――」
「でも、お内儀さん、この節は、お一人で山歩きをなさるのは、お危のうございますよ」
「子供じゃあるまいし」
後家さんは、ひどく邪慳《じゃけん》な色をして、浅吉に当りました。
「でも、お内儀さん、私は、あなたが今、この方に殺されているのだとばかり思ったものですから……」
事実、浅吉はそう思って、その主人の急場を救わんがために駈けつけたものに相違ない。ところが来て見れば、当の御本人が至極平気で、かえって助けに来た自分を邪慳にし、
「そんなわけじゃないよ、お前こそ、わたしを殺したがっているくせに……」
「どう致しまして」
「さっきから、なんだって、あっちこっちでわたしを呼び廻っているの。山の中だからいいけれど、世間へ出たら外聞が悪いじゃありませんか」
「どうも済みません」
「いいから、お帰り、お前ひとりでお帰り、わたしはこの池を廻って帰るから……」
「ですけれど、お内儀《かみ》さん……」
「何です」
「お危のうございますよ」
「何が危ない。しつこい人だ、お前という人は。うるさい!」
「けれども……」
「大丈夫だよ、お前こそ一人歩きをして、熊にでも食われないように、気をおつけ」
後家
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