大菩薩峠
他生の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)九輪《くりん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この時|海潮音《かいちょうおん》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]
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         一

 清澄の茂太郎は、ハイランドの月見寺の三重の塔の九輪《くりん》の上で、しきりに大空をながめているのは、この子は、月の出づるに先立って、高いところへのぼりたがる癖がある。人に問われると、それは、お月様を迎えに出るのだというが、しかし今晩は、どうあっても月の出ないはずの晩ですから、茂太郎も、それを迎えに出る必要はないはずです。
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天には星の数
地にはガンガの砂の数
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 大声あげてうたいました。
 してみると、茂太郎は、星をながめるべくこの塔の上へのぼったものです。
 茂太郎が、星をながめる興味は、今にはじまったことではありません。
「星は雨の降る穴だ」
と教えられた時分に、ふと清澄山の頂《いただき》で、海の上高く、無数の星をつくづくとながめて、
「穴ではない、星だ、星だ」
と叫んだのが最初で、それからこの子は、天界の驚異のうちに、星の観察を加えました。
 見れば見るほど、星の正体がこの子供には神秘にも見え、また親愛にも見え出して来たので、月を迎えに出るのを口実に、ほんとうは星の数をかぞえて帰ることが多かったものです。
 もとより、この子は、天文の観察を、少しも科学の基礎の上には置いていない。
「あの星がいちばん光る」
という直覚の第一歩から踏み出して、それを標準に、夜な夜なの変化を観察して、その記憶を集めているうちに、
「動かない星がある」
という第二段の知識で、北極星を認めたことから進み、今では星座の知識をほとんど備えて、普通の肉眼では六ツしか見えないという牡牛座《おうしざ》の星も、この少年には、たしかに十以上は見えたものらしい。
 星は決して雨の降る穴ではない、どの星も、この星も、おのおの独立した個性を持って大空に光っていると見たこの少年は、昔の杞国《きこく》の人が憂えたと同じように、いつあの星が落ちて来ないものでもないという恐怖に、一時はとらわれましたが、恐怖の対象としては、星の光は、あまりに美しくて、懐かしいので、久しからずして、その怖れから解放されて、驚異のみが加わってゆくのです。
 清澄山や日本寺あたりの空は広く、気は澄んでいて、天候の観察には便利でありましたが、このハイランドは、それに比べると壺中《こちゅう》の天地のようなものでしたから、一時は迷いましたけれど、今ではすっかりお馴染《なじみ》になって、
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天には星の数
地にはガンガの砂の数
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を歌い出すと、おのおのの星が舞い出して、茂太郎の周囲に降りてくるようです。
 色の最も赤い、運動の最もはやい、マースの星が、茂太郎の愛するところの一つでありました。
 茂太郎の天文学は、科学に基礎を置いていないように、迷信にも囚《とら》われておりませんから、西洋ではローマ以来、戦《いくさ》の神と立てられているこの星、東洋ではその現わるるのは戦の前兆として怖れられたこの星も、茂太郎には、ただその色が美しく、そして舞いぶりがことにいさましいのをよろこばすだけのものです。
 すべて、物は、純な心を以て見ないものに、その美しさを示すということがありません。清澄の茂太郎にとっては、天上の星の一つ一つが、充分にその美しさを旋廻して見せるのですから、見れども飽くということを知らず、ある時は星と共に大空の奥深く吸い込まれ、ある時は星が来って、わが周囲に舞いつ、おどりつしているもののように見え、
「弁信さん、星がキレイにおどっているよ、とても綺麗《きれい》……」
と呼びました。
 清澄の茂太郎が、天上の星をながめている時、地上の庭では、弁信法師が虫の鳴く音に耳を傾けております。
「トテモ綺麗だよ」
 茂太郎は天上の星に恍惚《うっとり》として躍動した時、地上の虫を聞いていた弁信は、
「茂ちゃん、わたしは今、虫の音を聞いているところですよ」
 この返事は、塔の上はるかな茂太郎の耳には入らなかったでしょう。
「いろいろの虫が、草むらで鳴いておりますよ」
 おのおのの虫は、おのおのの生を語るが如く、力いっぱいの奏楽を試みている。弁信は、今、その一つ一つが持つ生命の曲を聞きわけようとして離れられないものらしい。茂太郎は、あらんかぎりの愉悦を以て、あらんかぎりのあこがれを捧げて、星をながめているのだが、虫
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