胸に抱いているものをあや[#「あや」に傍点]なすようにして、
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ねんねがお守《もり》は
どこへいた
南条|長田《おさだ》へとと買いに
そのとと買うて
何するの
ねんねに上げよと
買うて来た
ねんねんねんねん
ねんねんよ
[#ここで字下げ終わり]
そうすると、女が歌の半ばにほろほろと泣き出してしまいました。
田山白雲は胸を打たれて気の毒なものだと思いました。この年で、この容貌《きりょう》で、そしてこの病。
これが岡本兵部の娘なのか。
娘は泣きながら両袖を合わせて、抱えたものをいよいよ大事にし、
「ねえ、あなた、茂太郎はどこへ行きましたろう……鋸山の上にもいませんでしたわ」
「そのうち帰るでしょう」
「そうか知ら、帰るかしら、いつまで待ったら帰るでしょう」
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ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
お山を越えて
里越えて
そうしてお家へ
いつ帰るの……
[#ここで字下げ終わり]
女は蝋涙《ろうるい》のような涙を袖でふいて、
「ねえ、あなた、この子の面《かお》が茂太郎によく似ているでしょう、そっくり[#「そっくり」に傍点]だと思わない?」
といって、今まで後生大事に胸にかかえていたものを、両手に捧げて白雲の机の上に置きました。それは石の羅漢《らかん》の首ばかりです。
「うむ」
白雲が挨拶に苦しんでいると、
「似ているでしょう。もし似ていると思ったら、それを描《か》いて頂戴な……」
十
田山白雲は保田を立つ時、予期しなかった二つの獲物《えもの》を画嚢《がのう》に入れて立ちました。
仇英《きゅうえい》の回錦図巻と狂女の絵。その二つを頭の中で組み合わせながら、再び白雲は旅にのぼったものです。
下谷の長者町の道庵先生が、かねての志望によって、中仙道筋を京大阪へ向けて出立したのも、ちょうどその時分のことでありました。
先生のは、もっと、ずっと以前に出立すべきはずでしたけれども、米友の方に故障もあったり、何かとさしつかえがそれからそれと出来たものですから、つい延び延びになってしまいました。
いよいよ出立の時は、近所隣りや、お出入りのもの、子分連中が盛んに集まって、板橋まで見送ろうというのを強《し》いて辞退して、巣鴨の庚申塚《こうしんづか》までということにしてもらいました。物和《
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