え、いよう羅漢様」
「羅漢様――」
「羅漢様――」
 山を遊覧する人間が、大きな声を出してみたくなるのは、妙な心理作用であると思いました。江戸あたりから遊覧に来た連中らしいが、とうとうそれらは羅漢様からお釣りを取ろうという面《かお》を見せずに、あちらの山に消えてしまう。
 さて、石の千体の羅漢はこれから始まる。あるところには五体十体、やや離れて五十体、駒井甚三郎は、その目をひくものの一つ一つをかぞえて行くうち、愚拙《ぐせつ》なるもの、剽軽《ひょうきん》なるもの、なかには往々にして凡作ならざるものがある。無惨なのは首のない仏。しかしながら、首を取られて平然として立たせたもう姿には、なんともいえない超然味がないではない。
 やがて駒井が足をとどめたところには小さな堂があって、その傍らにかなり古色を帯びた石標――「秋風や心の燈《ともし》うごかさず 南総一燈法師」と刻んである。
 それよりも、駒井の心をひいたのは、まだ新しい羅漢様の一つに「元名《もとな》米商岡村ふみ」と刻まれた、その女名前が、妙に駒井の心をなやませました。
 そこを少しばかりのぼってまた曲りにかかる。
 その曲りかどで風が吹いて来ました。
 その風の中からおりて来たのが妙齢の美人です。
 駒井もゾッとしました。高島田に結って、明石《あかし》の着物を着た凄いほどの美人が、牡丹燈籠《ぼたんどうろう》のお露のような、その時分にはまだ牡丹燈籠という芝居はなかったはずですが、そういったような美人が、舞台から抜け出して、不意に山の秋風の中から身を現わしたのだから、駒井ほどのものも、ゾッとするのは無理もありません。
 それだけではありません。見ればその娘の胸に抱えられているものがある。
 娘が後生大事《ごしょうだいじ》に抱えているそれを、よく見ると羅漢様の首でありましたから、駒井はいよいよ怪しみの思いに堪えることができません。
 すれちがって、娘は曲りかどを下へ、駒井は立って見送っていると、一間ばかり行き過ぎた娘があとを振返って、駒井を見てにっこり[#「にっこり」に傍点]と笑いました。
「これからお登りなさるの?」
「ええ」
 駒井は物怪《もののけ》から物を尋ねられたように感じながら頷《うなず》いて見せると、
「お帰りに、わたくしのところへ泊っていらっしゃいな」
 これには急に挨拶ができませんでした。しかし、そこで駒井は
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