[#「うす」に傍点]物を通して見るには見ましたが、それは支那のものとは比較になりませんよ。あなたは、支那の山水画を御存じでしょうな、雪舟、その他一二を除いては、日本の山水画も、あれにくらべると侏儒《いっすんぼうし》です、支那の山水画は人間の手に出来たものの最上至極のものです、あれがみんな写生ですよ……西洋画の写生よりも、もっと洗練された写生なんです」
といって白雲は、支那の古代からの、宋、元、明に及ぶまでの絵画の歴史と品評とを始めました。駒井甚三郎はここでもまた、異常なる傾聴を余儀なくされたのです。
駒井も今まで絵を見ていないということはない。また絵についても当時の上流の士人が持っていただけの教養は持っている。ただ、当時上流の士人が持っていただけの教養以上にも、以外にも出でなかったのみだ。南北の両派、土佐、狩野《かのう》、四条、浮世絵等についての概念を以て、人の高雅なりとするものは高雅なりとし、平俗なりとするものは平俗としていたのが、ここで思いがけない写生一点張りの画論を聞いて、容易ならぬ暗示を与えられたようにも感じました。
彼は船乗りの小僧、金椎《キンツイ》によって、西洋文明の経《たて》を流れているキリストの教えを教えられ、今はまた、ここで自分が絵画とか美術とかいうものに対する知識と理解の、極めて薄いことを覚《さと》らせられました。
学ぶべきものは海の如く、山の如く、前途に横たわっている――という感じを、駒井甚三郎はこの時も深く銘《きざ》みつけられました。
船が保田に着く。田山白雲は、一肩《いっけん》の画嚢《がのう》をひっさげて、ゆらりと船から桟橋へ飛び移りました。
「さようなら、近いうち必ず洲崎の御住所をお訪ね致しますよ」
笠を傾けて、船と人とは別れました。まだ船にとどまって、館山《たてやま》まで行かねばならぬ駒井甚三郎は、保田の浜辺を悠々《ゆうゆう》と歩み行く田山白雲の姿を見て、一種奇異の感に堪えられませんでした。
八
その名のような白雲に似た旅の絵師を、駒井甚三郎は奇なりとして飽かず見送っておりました。
ほどなく松の木のあるところから姿を隠してしまった後も、髣髴《ほうふつ》として眼にあるように思います。
しかしながら、人の生涯は、大空にかかる白雲のように、切り離してしまえるものでないと思いました。人情の糸が、必ずどこかに
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