、一度はごらんになってお置きになるがよろしい、あれは新進の画家には登竜門になるのですから、あの別席へ陳列されるということは、画家にとってはなかなかの光栄なのですから、若い人たちが勉強します……勉強して、なかなかいいものを作ることがあります、その点だけは画界のためになりますが……」
と、いいながら田山白雲は、そのすぐれて長い刀をいじくりまわすところは、どう見ても塙団右衛門《ばんだんえもん》といったような形で、いやしくも絵筆をとるほどの人とは見えません。しかし、その話しぶりは、時弊を論じても、一概に意地悪くならないところに、やはり風流人らしい一面はあるようです。
「それからがいけないのです、自分の努力を、正直に人に見せている分には難はないのですがね……そのうちに、人の物を審査してみたくなる、これが間違いのもとです。二三回いいのを見せてくれたなと思っているうちに、いつのまにか大家になって、人の物の審査をやり出すのです、そうして後進に訓示をするような口吻《こうふん》を弄《ろう》するんですからいけませんや……それではトテも大物は出ませんね」
「そうでしょう、好んで人の師となるのはよくないことです」
と駒井が軽く相槌《あいづち》を打ちました。白雲は慨然として、
「そこへいくと……浮世絵師とはいいながら、葛飾北斎《かつしかほくさい》はエライところがありましたよ。あの男は相当に名を成した時分にも、書画会へ出るには出ましたがね、雨の降る時などは蓑笠《みのかさ》で、ハイ葛飾の百姓がまいりましたよ、といって末席でコクメイ[#「コクメイ」に傍点]に描いていたものです。年はたしか九十で死にましたかな。死ぬ前も、天われにもう十年の歳をかせば本物が描ける、どうしてもいけなければ、もう五年、といって死んだというのは本当でしょう。おれには猫一匹も描けない、描けないと、絶えず妹に訴えていたというのも、嘘ではあるまい……」
 それから白雲は、当代の画家にはこの己《おの》れを責むる心がなく、社会に真の画家を養成する大量のないことを説き、天然の名勝や、善良な美風が破壊される時に、腹を立てる美術家はないが、舶来の裸物《はだかもの》に指でもさすと、ムキになって怒り出す滑稽を笑い、我が国の古来の大美術はもちろん――近代になって、東州斎写楽《とうしゅうさいしゃらく》の如きでも、その特色を外国人から教えられなければわ
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