まで知っているところを見ると、この人は国学のみならず、現代の知識にもなかなか明るい人と見える。
その翌日から万葉集の講義が始まりましたが、その講義は良斎らの座敷を選ばず、名物の炬燵《こたつ》を仲介することもなく、この炉辺をそのまま充《あ》てることになりました。
一冊の万葉集を真中に置いて、炉の一方には良斎先生が陣取り、それと相対して北原賢次とお雪ちゃん――陪聴《ばいちょう》の役として留守番の喜平次も顔を出せば、お雪ちゃんの連れの久助さんも並んでいる。
池田良斎は、燃えさしの粗朶《そだ》の細いところを程よく切って、それをやや遠くの方から万葉集の字面に走らせ、
[#ここから2字下げ]
こもよ
みこもち
ふぐしもよ
みふぐしもち
この岡に
菜《な》摘《つ》ます児《こ》
家きかな
名のらさね
そらみつ
やまとの国は
おしなべて
吾こそをれ
しきなべて
吾こそませ
われこそはのらめ
家をも名をも
[#ここで字下げ終わり]
一通り訓《よみ》をして、それからいちいち字義の解釈を下して、全体の説明にうつりました。
「この歌は、雄略天皇様が、あるところの岡のあたりで、若菜を摘んでいる愛らしい乙女を呼びかけておよみになった歌で、これ、そこに籠《かご》を持ちくし[#「くし」に傍点]を持って菜を摘んでいる愛らしい乙女よ、お前の家はどこじゃ、聞きたいものじゃ、名乗れ、自分はこの国を支配する天皇であるぞよ……というお言葉、いかにも上代の平和にして素朴な光景、一国の元首が、名もなき乙女に呼びかけ給う壮大にして、優美な情調が一首の上に躍動している。すべて万葉の歌は……」
と講義半ばのところへ、大戸を押し開いて、あわただしく駆け込んだものがありましたから、講義が一時中止になりました。
「惜しいことをした、ホンのもう一息のところで……」
と言って、講義半ばの空気を壊したことをも頓着せず、炉辺へしがみつくようにやって来て、
「熊を一つ取逃がしてしまった、突くにはうまく突いたが、槍がよれ[#「よれ」に傍点]たから外《そ》れちまった、危ねえところ――」
猟師は手首の負傷を撫でて、すんでのことに熊の口から助かって、命からがら逃げて来た記念を見せる。鉄砲を持たないこの辺の猟師は、熊を見つけると充分に引寄せて、のしかかって来る奴を下から槍で胸か腹を突く、突っ込んだ瞬間に逃げる――そのあとで熊は突かれた槍
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