岳へお登りなさいませ、そうして、朝日権現の御前に立って、蕩々《とうとう》とのぼる朝日の御陽光を拝んで御覧あそばせ、それはそれは、美麗とも、荘厳《そうごん》とも……」
と言いかけて、美麗荘厳はこの人に向って、よけいなことだと気がつきました。
三十一
宿では、お雪ちゃんが炬燵《こたつ》に入って人形に衣裳しているところへ、竜之助がフラリと帰って来ました。
「あ、先生、お帰りなさいまし」
衣裳人形を片手にして、お雪は帰って来た竜之助を見上げると、竜之助は刀を床の間へ置いて、静かにお雪ちゃんと向い合わせの炬燵に手を入れました。
お雪はにっこりと笑って、
「お迎えに上ろうと思いましたが、たぶん鐙小屋《あぶみごや》だろうと思ってやめました」
「そうでしたか、わたしも、お雪ちゃんを誘って行こうと思ったが、歌に御熱心のようだから、一人で出かけましたよ」
「ええ、ずいぶん、あの先生偉い先生よ、お歌の方の学問では京都でも指折りの先生ですって……」
「それはいい先生が見つかって仕合せだ」
「全く仕合せよ、あなたには武術の護身の手というのを教えていただくし、あの池田先生には歌を教えていただくし……」
お雪は心から、自分の今の身の上の幸福を感じているらしい。そうして、今ちょっと手を休めた衣裳人形の着物の襟《えり》を合わせはじめると、竜之助が、
「お雪ちゃん、どうだ、乗鞍ヶ岳へのぼってみようではないか」
「え、お山登りですか、結構ですね。ですけれども……」
お雪は人形の手を袖へ通して、
「けれども今はいけませんね、せめて春先にでもなってからでしょう」
「ところがいま登ってみたいのだ」
「この雪の深いのに……」
「左様……あの鐙小屋の神主が案内をしてくれるといいました」
「あの神主様が案内をして下さる? それだって、先生、今は行けやしませんよ」
「どうして?」
「どうしてとおっしゃったって……ここには雪はありませんが、外へ出てごらんなさい、山はみんな真白ですよ、吹雪でもあったらどうします」
「それでも、あの神主は、昨晩|室堂《むろどう》へ泊って易々《やすやす》と帰って来た」
「そりゃ、仙人と並みの人とはちがいますよ、山で修行している人と、たまにお客に来た人とはちがいますもの」
「だから、その山で修行した人が先達《せんだつ》をしてくれればいいわけではないか」
「そりゃ
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