ら、私が近寄って見ますと、それがあなた、お気にかけなすっちゃいけませんよ、お内儀さんの死骸なんです。あなたが殺されて、あの沼の中へ投げ込まれているのを、私はまざまざと見たものですから、それが気になってたまらないでいるところへ、今日、こうして、あなたが沼の方へ、ズンズンとおいでなさるものですから、遠くで私が見ていますと、なんのことはない、あなたは、沼にすむ魔物に引寄せられておいでなさるとしか見えないものですから、私は我を忘れて、あなたの跡を追いかけて参りました、そうして大きな声をして、あの通りにお呼び申してみました。それでもようございました、危ないところをお助け申しました。これからは決してお一人歩きをなさらないようになさいまし、どうぞ……」
 浅吉は一生懸命でこのことをいいますのに、後家さんは案外平気で、
「お前、このごろ、どうかしているよ」
「いいえ、わたしより、お内儀《かみ》さん、あなたがどうかしておいでなさるのですよ」
と浅吉は例になくせわしく口を利《き》いて、
「あなたは魔物に引摺《ひきず》られておいでなさるんですよ」
「ばかなことを言っちゃいけないよ、どこに魔物がいます」
「いけません、お内儀さん、危ないのは、魔物にひっかかったと思う時よりも、魔物をひっかけたと思っている時の方が危ないのです」
「わけのわからないことをお言いでない、魔物なんてこの世の中にありゃしませんよ、みんなあたりまえの人間ですよ、人間並みにつきあっていさえすりゃ、怖いものなんてあるものか」
「そ、そ、それがいけないのです、お内儀さん、御当人にはわかりませんが、傍《はた》で見ていると、よくわかります、あの人は、今にきっと、お内儀さんも、私も殺してしまう人ですよ、早く逃げないと……」
「逃げたけりゃ、お前ひとりでお逃げ、お前こそ、わたしを殺そうとしたじゃないか、この間の晩のあのざまは何です」
「あれは、お内儀さん、その、夢ですよ。その怖い夢を見たものですから、思わず知らず力がはいって、あんなことになりました。お詫《わ》びをして許していただいたじゃありませんか。もうあれっきり、あのことをおっしゃって下さらないはずじゃありませんか」
「いいよ、そう申しわけをしなくったって。ちっとも怖かないから……第一、お前に人を殺すだけの度胸がありゃ頼もしいさ」
「お内儀《かみ》さん、それをおっしゃらないで下さ
前へ 次へ
全161ページ中146ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング