れを読み砕いてみましょうか」
「お待ち下さい、今、本を持って来てみますから」
 お雪は欣然《きんぜん》として、立って本を取りに自分の部屋へ出かけました。
 そのあとで、猪《いのしし》が煮え出したものですから、池田良斎といわれたのは箸の先で、ちょいとつまんで風味を試み、
「うまい」
と言いました。北原謙次が、
「山陽の耶馬渓図巻《やばけいずかん》の記を読むと、猪を食うところがありますね」
「そうそう、今でもそのあとに、喫猪亭《きっちょてい》というのがある」
「耶馬渓へおいでになりましたか」
「行きました」
「どうですか、いいところですか」
「そうさ、人によってだが、わたしはあまり好かないよ。山陽にいわせると、天下第一等のところになっているが、山陽という男が、その実あんまり歩いてはいないのだからな。それに漢学者流の誇張で書きまくっているのだから、行って見て感心する人より、失望する者が多いだろう」
「山陽は足跡《そくせき》海内《かいだい》にあまねしとか、半ばすとか自慢をしていますが、この辺までは来たことはないでしょう」
「ないとも。耶馬渓を見てさえあのくらいだから、この辺から神高坂《かみこうざか》、穂高、槍、大天井あたりの景色を見せたら、仰天して、心臓を破裂させてしまうかも知れない。妙義だって、よくは見ていないのだ……雲霧晦冥《うんむかいめい》の時の妙義を、上州と信濃のある地点から見て見給え、とても、耶馬渓あたりの比ではないのだよ」
「時に、四面もうみな雪ですね」
「ああ、四面みな雪で懐ろだけが、こうしてあたたまっている」
 二人は猪をパクつきながら、一盞《いっさん》を試みている。

 万葉集を行李《こうり》の中から取り出して、ここに持ち来すべく出て行ったお雪は、廊下でバッタリと男妾《おとこめかけ》の浅吉に出逢いました。
 浅吉は、気の抜けたような面《かお》をして、手に櫛箱《くしばこ》を提げながら、通りかかって来たものですから、
「浅吉さん、どちらへ」
「お雪ちゃん、お寒くなりましたね」
「ええ、寒くなりました、お風呂ですか」
「いいえ、これから、あなたのところへお伺いしようと思っているところです」
「そうですか……」
と言ってお雪は、浅吉の手に抱えている櫛箱に眼をつけますと、
「お内儀《かみ》さんにいいつけられたものですから、仕方なしに……」
「何ですか、浅吉さん」

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