。
この野郎、先刻は未練気もなく月見寺を出て行ったはずなのに、まだこんなところにひっかかっているところを見ると、何か思いきれないものが残っているのかも知れない。
「おれという野郎も、わからねえ野郎じゃねえか」
といって柄《がら》にもなく頬杖をついて、いささか悄気《しょげ》て見えるのは、近頃はどうも思うようにがんりき[#「がんりき」に傍点]の眼が出ないで、あっちへ行っては鼻を明《あ》かされ、こっちへ来てはヌカヨロ[#「ヌカヨロ」に傍点]をつかませられ、これも思いきれないで、血眼《ちまなこ》で東西南北を駈けめぐって、なにほどかモノにしようと焦《あせ》っているのが、兄貴の七兵衛の物笑いの種となるばかりでなく、御当人も、少しは気がさしたものらしい。
「さて今晩のところは……」
といって頬杖を外《はず》し、身を起しかけたのは、今晩これからの塒《ねぐら》の心配でしょう。
「うっかりドジを踏んで、粂《くめ》の親分にでも見つかろうものなら……事だ」
百蔵は真黒な犬目山《いぬめやま》の方を横目に睨《にら》んで見たのは、この男にとっては、この郡内は最も危険区域であり、ことに鳥沢の粂《くめ》という親分には、頭も尻尾も上らないで、いつぞやは、裸にされて、甲州名代の猿橋の上から逆《さか》さまにつるされたことがある。その辺を心配してみると、この危険区域には、うっかり碇《いかり》を卸せなくなるはずです。
で、結局、どう思案がついたか腰を浮かしながら、
「待てよ……あの寺で、おれの姿を見ると、慌《あわ》てて縁の下へ隠れたのは、ありゃ清澄の茂太郎だ」
とつぶやきました。なるほど、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの眼力《がんりき》で、子供の隠れんぼを見落すはずもあるまい。
その時分、幸か不幸か茂太郎は、
[#ここから2字下げ]
いっちく
たっちく
ジンドコウ
[#ここで字下げ終わり]
そういいながら、ちょうど、この宮の台の原へ馳《は》せ上って、ほとんど、がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼前|咫尺《しせき》のところまでやって来たものですから、
「おい――茂坊」
「おや?」
清澄の茂太郎が、ギョッとして立ち止まりました。
「茂太郎」
「あ、お前は……」
「お前こそ、どうしてこんなところに来てるんだい、両国橋にいれば、ああして人気の上に祭り上げられて、栄耀栄華《えいようえいが》が尽せるのに
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