「茂ちゃん」
弁信が再び呼びかけたものですから、歌いかけた茂太郎が、
「あい」
「お前、うたうなら子供らしい歌をおうたいよ」
またも干渉を試みたものですから、茂太郎が首を振って、
「なぜ」
「なぜだってお前……鄭声《ていせい》の雅楽《ががく》を乱るを悪《にく》む、と孔子様が仰せになりました」
「え……」
「歌うんなら、子供らしい歌をおうたいなさい、今のようなのはいけません」
「弁信さん、お前、むずかしいことばかりいうんだね、鼻が十六あってはいけないの、孔子様が歌をうたってはいけないのなんて……あたいが一人でうたって、一人で喜んでるんだから、かまわないじゃないか」
「そういうものではありません……では、わたしがひとつ、白楽天《はくらくてん》の歌をお前に教えて上げましょう」
「白楽天ッてなに――」
「支那の昔の歌よみさ」
「教えておくれ」
「道州の民《たみ》ッていうのを歌いましょう」
「道州の民ッていうのはなに」
「道州ノ民、侏儒《しゅじゅ》多シ」
「道州ノ民、侏儒多シ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「市《う》ラレテ矮奴《わいど》トナッテ年々《としどし》ニ進奉セラル」
「弁信さん、これが歌なの、論語じゃないの」
茂太郎が、少しく不平の色を現わしました。
「だまって覚えておいでなさい、あとでわけを話して上げますから」
そこで二人は、黄昏《たそがれ》の縁に腰うちかけて、白楽天の譲り渡しを試みていますと、門をスタスタと入って来る人がありましたから、めざとくそれを見つけた茂太郎が、
「あ、いやな奴……」
というが早いか、身をおどらして、縁の下へ隠れてしまいました。
「誰が来たの」
弁信が徒《いたず》らに見えない目を動かしているところへ入って来た旅の人が、
「御免下さいまし」
「どなたですか」
「はい、ええ、通りがかりの者でございますが……」
見ればキリリ[#「キリリ」に傍点]として甲掛《こうがけ》脚絆《きゃはん》の旅の人。口の利《き》き方も道中慣れがしていると見えて、ハキハキしたものです。
「はい」
「つかぬことを承《うけたまわ》るようでございますが……手前は大工が商売でございまして」
「あ、大工さんですか」
「はい、渡り大工といったようなものでございますが、承れば」
承ればを二度ほど重ねたことほど切口上《きりこうじょう》で、弁信の傍へソ
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