がら、
「あぶねえ、あぶねえ」
と言いました。
この時、生垣《いけがき》の蔭から、不意に槍を持って姿を現わしたのが神尾主膳です。執拗《しつこ》いこと。怪しい者を追いかけて、ここまで槍をつっかけて来たのです。
神尾主膳には多少槍の心得があって、九尺柄の槍を座に近いところへ置き、いざといえばそれを取ることにしている。いざといわない時も運動の意味で、それをしごいてみることがある。
今は、そのいざ[#「いざ」に傍点]というほどの場合でもなく、運動のためでもないのに、まさしく酒乱の手ずさみにこの槍がえらばれているもので、こういう際には、平生の技倆以上に思う存分にその槍を使うことが例になっている。かつて染井の化物屋敷では、この槍のためにお銀様が、危うく一命を取られるところでした。
今はこうして、追わなくてもよい敵を、本城を留守にしておいて追いかけて来たものですから、七兵衛も驚きました。
また厄介なことにはこういう際には、いやに眼が利《き》き出してきて、暗いところへ逃げ込んだ敵の影も、平生の視力以上に認められるだけの感能が働いてくるようです。神尾主膳の酒乱は、特に凶暴を逞《たくま》しうするために、鋭敏な附加能力といったようなものが現われるのですから始末が悪い。
「あぶねえ」
驚いた七兵衛は、身をかわして飛び退きましたが、神尾の槍先は、透かさずそれを追いかけて来る。ために七兵衛は、御行《おぎょう》の松を楯に三たびばかりめぐりましたが、無二無三に突きかけて来る神尾の槍先、とてもあなどり難く、ほとんど進退に窮するほどの立場まで突きつめられたので、
「ちぇっ」
といって身を躍らすと、松の幹へ足をかけて、早くも三間ばかり走りのぼってしまいました。突きはぐった神尾主膳、天井裏の鼠をねらうように、槍を空《くう》につき立ててみたけれど、もう駄目です。そこで、あせって、しきりに空をのぞんで突き立てたが、手ごたえがないので、いよいよじれ出しました。
木の上でホッと息をついた裏宿の七兵衛、
「神尾の殿様……私はあなた様に追われようと思って上ったんじゃありません、あなた様のおためになって上げようと思って上りました、それを、いきなり槍玉にかけようとなさるのは驚きました」
「憎い奴」
「神尾の殿様、落ちついてお聞き下さいまし」
「憎い奴」
「私は、あなた様にお目にかかった上で、ご相談を願いまし
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