が起らない。酒乱のない限り、神尾は扱い易《やす》い男になっているが、この時はそうでない。飲まないで、そうして、酒乱の時と同じような眼のかがやきを現わして、ブルブルとふるえ、
「お絹!」
「え……」
「お前、今晩、千隆寺へ行くのを止《よ》せ」
「え、何ですか、千隆寺へ行くのは止せとおっしゃるのですか。止せとおっしゃるなら止しもしましょうが、わたしが好んで行きたがるわけじゃないはずです、どなたか、おたのみになったから、柄になくわたしがお芝居を打とうというんじゃありませんか」
 お絹も少しばかり気色ばみました。そのくせ、お化粧の手は少しも休めない。
「いや、止してもらいたい、止めにしてもらいたい」
 神尾はいよいよあせり気味で口早にいいますと、お絹は落着いたもので、
「駄々っ児のようなことをおっしゃったって仕方がありません、止すなら止すように初めから……」
 この時、神尾主膳は物につかれたように立ち上って、
「止せ!」
 お絹の向っていた鏡台に手をかけると、無惨《むざん》にそれをひっくり返してしまったから、
「あらあら」
 これにはお絹も怫《むっ》としました。
 けれどもこの時のは、酒に性根《しょうね》を奪われておりませんでしたから、いわば一時の癇癪《かんしゃく》です。神尾主膳はむらむらとした気分を鏡台に投げつけて、それをひっくり返しただけで、すっと自分の居間へ引上げてしまいました。
「なんて、乱暴でしょう」
 お絹も、さすがに、むらむらとしましたが、酒が手伝っていない以上は、結局、これだけで納まるものだと見くびりながら、倒れた鏡台を起し、
「いやになっちまう」
と言いながら、鏡台を引起して、ふたたび鏡台に向ったが、「じゃ、止《よ》そう、お寺へなんか行くのは止しちまおう、こちらから頼んだわけじゃあるまいし」とは言いません。鏡に向って以前よりは念入りにお化粧をやり直したのは、かえって、「行きますとも……行きますとも。ここまで乗りかけた舟に乗らないでいられるものですか。落ッこちる心配なんかありませんから御安心下さいよ」といっているようです。そうでしょう、落ちる心配はあるまい。落ちたところで、この女は溺《おぼ》れる気づかいのない女です。
 そうして丹念にお化粧を済ましたお絹は、根岸の里の夕闇を、さんざめかして程遠からぬ千隆寺へ乗込んだのは間もない時。
 神尾主膳が酒を飲み出した
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