ごぜん》の言いつけでございます」
「それは有難うございます」
護摩の席が終ったあとで、帰ろうとするお絹を、こういって番僧がひきとめたものですから、お絹が喜びました。
書院に待たせられていると、ほどなく例の千隆寺の若い住職が、まばゆいほど紅《くれない》の法衣をそのままで、極めてくつろいだ面色《かおいろ》をして現われ、
「お待たせ致しました」
「先日は失礼致しました」
「いや、拙僧こそ。あの時は多忙にとりまぎれて、余儀なく失礼を仕《つかまつ》りました、今日はごゆるりと、お話を承りたいと存じます」
「はい……」
お絹はどこまでも殊勝な面色《かおいろ》と、武家の奥様という品格を崩さないつもりで、身の上話をはじめました。
この身の上話は、ここに通いはじめた最初から用意をして来たのですが、今日まで直接に住職に打明ける機会を与えられなかったものです。
「おはずかしい次第でございますが、わたくしが不束《ふつつか》なばっかりに、主人の心を慰めることができません、連添って十年にもなりますが、子というものが出来ませんので、夫婦の中の愛情に変りはございませんが、家名のことを考えますると……」
「御尤《ごもっと》もなこと」
「家名大事と思いまする夫は、妾《しょう》を置くことに心をきめまして、このことをわたくしに相談致しましたが、聞くところでは、夫はもう以前から、そうした女を他に置いてあるのだそうでございます。わたくしと致しましては、それに不服を申そうようはございませぬ、快く夫の申出でに同意を致しまして、妾を内へ入れるようにと申しましたが、それは夫が気兼ねを致しまして……」
お絹はそこで、自分の苦しい立場を、言葉巧みに住職に訴えました。嫉妬ではないが、女のつとめが果せないために、夫の愛を他の女に分けてやらなければならない恨み。どんな方法によってでも、一人の子供を挙げることさえできたなら、死んでも恨みはないという繰言《くりごと》。それを細々《こまごま》と物語りました。
聞き終った住職は、
「いや、いちいち御尤もなこと、左様な恨みを抱く婦人が世に多いことでござる。御信心浅からずとお見受け申すにより、八葉の秘法を修《しゅ》してお上げ申しましょう、丑《うし》の日の夜、これへお越し下さるように……」
案外|無雑作《むぞうさ》に允許《いんきょ》を与えられたものですから、お絹がまた喜びました。
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