字を左へ曲げたがるもの、カの字の肩の丸いのを直したり、やや進んだところで、村名尽《むらなづく》しの読み方、商売往来、古状揃《こじょうぞろえ》の読違えを直してやったり、いま与えてやったお手本へ、もう墨をこぼしたのを軽く叱ったりしていると、そのうしろでは何か物争いをはじめて、取組み合いがはじまるのを与八が取押える。
「お師匠様」
だしぬけに呼ばれて、お松は振返り、
「何ですか」
「与八さんはお人好しだっていいますが、本当ですか」
「そんなことをいうものではありません」
お松がたしなめると、当の与八は笑っている。
「お師匠様」
「何ですか、もうすこし小さい声をなさい」
「金太の野郎が、おいらの墨をなめました」
「なめやしないやい、香いをかいでみたんだい、こんな物をなめるかい」
「いけません、人の墨や筆を、だまっていじるものじゃありません」
「あ、先生、宇八が、あとから、おれの頭の毛をひっぱりました」
「いけません」
「お師匠様」
「何ですか」
「三ちゃんが、ここの道場へはお化けが出るって言いました」
「旅のお侍に聞いたんです」
「そんなことをいうもんじゃありませんよ」
「お師匠様、川っていう字は真中から先に書くんですね、端から書いちゃいけないですね」
「そうです、真中から先にお書きなさい」
「先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]は字を書くふりをして、人形の頭を書いています」
「うそだい、うそだい」
「うそなもんか、これ見ろ、墨がこの通り坊主頭になってらあ。先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]は字を書くふりをして、こんな坊主頭を書きました」
「いけません……それから周造さん、お前さんも、人のいいつけ口をするものじゃありませんよ」
「先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]がおいらを睨《にら》みました、帰りに覚えてろといって、拳固《げんこ》をこしらえて見せました」
「静かになさい。多造さん、人をおどかしてはいけませんよ。それから周造さんも、おたあ[#「おたあ」に傍点]といわずに、ちゃんと多造さんとおいいなさい」
「先生、硯《すずり》の水がなくなりました」
「それではみなさん、お手習はこれでおしまいにします、硯と草紙を、ちゃんと正しく、筆を前に置いて、こちらをお向きなさい」
程経てお松がこういうと、子供たちが静まり返る。お松は自分も座について、
「手をよごしませんでしたか、さあこう
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