蕨《わらび》の奈良茶、上尾博労新田《あげおばくろうしんでん》の酒屋、浦和|焼米坂《やきごめざか》の焼米、といったような名物に挨拶しながら、熊谷で、梅本の蕎麦を食べないということが心残りになるらしい。負けおしみの強い道庵は、これからまた引返して、その蕎麦屋を尋ねようといい出すかも知れない。
 ところへ、上手《かみて》から聞えて来たのが、
「下に――下に――かぶり物を取りましょうぞ」
 これはいわずと知れた大名のお通りの先触れです。
 どうも大名のお通りというやつは、道庵と米友の性《しょう》に合わない。
 その声を聞きつけた道庵は、顔をくもらせて、
「さあ、いけねえ、友様、面倒だから、そこらへ入《へえ》ってしまおう」
 道庵は、蕎麦のことなんぞは打忘れて、米友を促すと共に、丸くなって脇道へ走り込んでしまいました。
 米友とても、大名の行列があんまり好きではない。
 けれども、先生のように丸くなって逃げる必要はないと思う。大名に借金があるわけではなし、こんなに丸くなって逃げなくてもいいと思うが、道庵がやみくもに逃げ出したものですから、米友もまた、そのあとを追わないわけにはゆきません。
 やみくもに逃げた道庵は、ついに畑の中へ飛び込んで、桑の木へ衝突して、ひっくり返り、そこであぶなくとりとめました。桑の木がなければどこまで飛んで行ったかわかりません。そこへ駈け寄った米友が、
「先生、怪我はなかったかい」
「おかげさまで……」
 畑の中へひっくり返って、羽織をほころばした上に、土をかぶった有様は、見られたものではありません。米友がそれを介抱して、それから廻り道をしてまた本街道に出ると、ちょうど通りかかりの駄賃馬を、道庵が呼び留めました。
 値段をきめて、深谷《ふかや》まで二里二十七町の丁場《ちょうば》を、ともかく馬に乗ることにきめました。
 いよいよ、馬に乗る段になると馬方が、
「旦那、それじゃあ向きが違いますぜ」
と笑ったのも道理。道庵は、馬の頭の方へ自分の尻を向け、馬の尻の方へ自分が向いて乗込んだものだから大笑いです。
「ナアーニ、これが本格だ」
 道庵はすましたもので、向きをかえようとも致しません。
「は、は、は、旦那は御冗談者《ごじょうだんもの》だ」
 馬方どもが笑いますが、道庵は笑いません。
「坂東武士が、敵にうしろを見せるという法はねえ」
 さては、先生、大名の行
前へ 次へ
全161ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング