かっているのだ。小癪な犬だと思わないわけにはゆきません。
「狂犬《やまいぬ》が、あっちへ行った、人食《ひとくら》い犬《いぬ》が、あの若い侍に食いついてらあ」
ははあ、これは狂犬だ。だれかれの見さかいなく食いつくようになっている。あえて兵馬の修行を軽蔑しているのではない。兵馬は、それでやや安んじましたが、犬はいっそう烈しく、尾を振り、牙を鳴らして、兵馬に飛びかかって来るのです。
そこで、兵馬は、今かついで来た絵馬を肩からおろして、これを左手で縦に構えると、狂犬はさしったり[#「さしったり」に傍点]というようなわけで、猛然としてその絵馬の上へ乗りかかって来たのを、右の手を遊ばしておいた兵馬が、絵馬の下から犬の左の前足をムズとつかむと、ハズミ[#「ハズミ」に傍点]をつけて一振り振って投げました。
それは実に見事なもので、狂犬はクルクルと中空高く舞い上り、堤上《ていじょう》の松の枝をかすめて、濠《ほり》の真中へドブンと落ち込み、しばしは浮《うか》みも上りません。
「強いなあ、あの侍は」
歩みをとめた人々が驚嘆して集まるので、兵馬はきまりが悪く、絵馬をかかえて一散に逃げました。
十九
ちょうどその日の薄暮《はくぼ》、韮崎《にらさき》方面からこの甲府城下へ入り込んだ武者修行|体《てい》の二人の者。前に進んでいた逞《たくま》しいのが、何を思い出したか、刀の柄袋《つかぶくろ》を丁《ちょう》と打って、
「あ、今になって思い当った」
突然に叫び出したものですから、同行の丈《せい》の少し低いのがビックリして、
「何だい、何を思い出したのだい」
「あの、例の塩尻峠の……」
と前の逞しいのが、ちょっと後ろを振返りました。これはいのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の斬合いの一人、仏頂寺弥助であって、それに答えて、
「塩尻峠のしくじりを、まだ持越しているのかい」
それは書生で、医術を心得ているあの時の立会人、丸山勇仙であります。
斬られて介抱を受けた、二人がいないところを見れば、あの傷がもとで死んでしまったか、そうでなければ、まだ治療最中であろう。
「あれはな、あの男は、武蔵の沢井の机竜之助だ――」
「え、武蔵の沢井の……机?」
「そうだ、そうだ、それに違いない。それと知ったらば出ようもあるのだった」
仏頂寺弥助が何か思い出して、しきりに残念がるのを、丸山勇仙
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