それは、家があれば台所のあるのとおなじことで、お銀様も、幾度か、机竜之助のために、この紙を用意してやった覚えがあるのですが、現在、ここにあるこの紙は、お銀様がこしらえてやったものではありません。
 そう思って見ると、自分が常にこしらえてやったものよりは、揉み方がやわらかである――お銀様は、急にその香箱を持って、自分の鼻先に持って来ると、紛《ぷん》として立ちのぼる香りは椿油の香いであります。椿の油は、刀剣を愛する人の好んで用うるものであると共に、髪の毛の黒いことを望む女の人は、誰でもこれを珍重しますから、ドチラにしてもその香いは不自然ではありません。
 けれども、お銀様は、その油の香いが嫌でした。この場合、お銀様には、奉書の紙の揉《も》み方のやわらかいのが癪《しゃく》にさわったと見え、この紙を取り上げてズタズタに引裂いた時です、
「お嬢様――」
と弁信法師のおとずれの声が聞えたのは――
「はい」
 お銀様は引裂いた紙を、従容《しょうよう》として香箱の中に詰めながら返事をしました。
「弁信さんですね」
「ええ」
と答えたその弁信は、この室へ入って来たのではありません。それは次の間にいるのだか、また廊下の辺にでもたたずんでいたか、夜来て、夜この室に入ったお銀様には、更に見当がつきません。
「お嬢様」
 再びお銀様の名を呼んだ弁信は、前の通りどこにいるか、所在を知らせないで、
「あなたが、何のためにここへおいでになって、何を、私におたずねになろうとするのか、それは、私にようくわかっております。しかし、お嬢様、たとい、あなたがおたずねになろうとするほどのことを、私がいっさい存じておりましたにしても、それを残らず申し上げねばならぬという責《せめ》は、私にないものと御承知下さいまし……つまり、私は、あなたがこれへおいでになって、私にお尋ねになろうとすることに、いっさい御返事を申し上げないことに、きめてしまいました」
 何も尋ねられない先に、弁信はこういって予防線を張ってしまったのは、尋ねられないまでも、その先、その先をいってしまいたがるこのお喋《しゃべ》り法師としては、異数の現象でありました。
「それでは無理におたずねは致しますまい」
とお銀様が冷やかに答えましたが、
「お前が教えてくれなくても、わたし一人で探してみせるから……」
と針をふくんでいいかえしました。しかし、この
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