殺すといいましたか」
「いえ、いえ、そういうわけじゃありませんけれど、盲目《めくら》でいながら、ああして刀をそばへ引きつけておく人には、油断がなりません」
「お前、何かあの方に失礼なことをいって、脅《おど》かされたんじゃないの……」
「いえ、いえ、決してそういうわけじゃございません、おかみさんのお身を心配するあまり、ついよけいなことを申し上げました」
「付合ってごらん、あれで、なかなか苦労人で、世間を見ておいでなさるから。ポツリポツリ話してゆくうちに、だんだん味が出て来るようなお方ですよ、こわいこともなにもありゃしません」
「ですけれども、おかみさん……私が可愛いと思うなら、私に心配をさせないで下さい。ね、私は、いつおかみさんが、あの人に斬られるか……それを思うとヒヤヒヤしつづけですから」
「ほんとうにお前は意気地のない人だ……さあ一つお上りよ」
 後家さんは、炬燵《こたつ》の上の杯を取って男妾に与えました。
 そこへお雪が廊下の外からやって来て、
「おばさん」
「はい、お雪さん、お入りなさい」
と言って、炬燵の上の酒の器《うつわ》だけを下へおろしてしまいますと、お雪は、
「さきほどは有難うございました、お邪魔をしてもようございますか」
「よいどころじゃございません、さあ、お入りなさいまし」
「御免下さい」
 お雪が入って来ると、後家さんは炬燵の一方へ座蒲団《ざぶとん》を出して、ついでに茶棚の上の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》のお盆を炬燵の上へ置きました。つまり、お雪が入って来たために、酒と蕎麦饅頭とが炬燵の上で交迭《こうてつ》した結果になりました。
「一つおつまみなさいな」
「どうも御馳走さま」
 三人が炬燵を囲んで世間話がはじまると、やがて先日の木曾踊りのことになり、
「おばさん、まだ、わたしあの歌がよく覚えきれませんから、教えて頂戴な」
 後家さんは喜んでお雪に向って、例の「心細いよ、木曾路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる」という歌の文句からはじめて、合《あい》の手《て》までも教え、はては自分が得意になって、かなりの美音でうたい出しましたから、一座もなんとなく陽気になってきました。
 歌を教えてしまうと、後家さんは、
「踊りはこの人が上手だから、教えておもらいなさい」
と男妾《おとこめかけ》の浅吉を指さしました。
「どうぞ、教えて下さい」
とお雪も、それに合わせて浅
前へ 次へ
全161ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング