すのは真剣でございます……私はいったい、何を、あなた様に申し上げましたろう、何をおたのみ申したんでしょう」
 一旦、息のつまった男妾はこういって、眼をきょろきょろ[#「きょろきょろ」に傍点]させながら、極度におちつかない心で四方《あたり》を見廻すと、竜之助のかたわらに大小の刀があることが、著《いちじる》しく脅迫的に眼にうつったと見えて、また青くなりました。ほとんど取返しのつかないことをやり出したもののように――
 一切、その狼狽《ろうばい》に取合わない竜之助の冷やかさが、ようやくこの男妾を仰天させました。
「ねえ、あなた様、ただいま、何を申し上げましたか、それは一時の愚痴でございますから、どうかお取消しを願います、お気にさわりましたら、御勘弁下さいまし。なあにほんの取るに足らない色恋の沙汰でございますから、私さえ逃げ出せばそれでいいんでございます。生かすの殺すの、あなた、水の出端《でばな》や主《ぬし》ある間の出来事とは違いまして、生かすの殺すの、そんな野暮なものじゃございません……」
 しかし竜之助は冷罨法《れいあんぽう》を施しつつ答えず。男妾はいても立ってもいられないように、座敷の中を飛び廻って、
「さきほど、あなたのおっしゃったことを、もう一度お聞かせ下さいまし、私に代ってあれを斬ってみようとおっしゃったのは、御冗談《ごじょうだん》でございましょうね。もし、御冗談でございませんでしたら、お取消し下さいまし。あやまります、あやまります、このように……」
 それでも竜之助は返事をしませんでした。返事をする必要がないからでしょう。そこで男妾はまた立ち上って、
「本当のことを申しますと、私もあれが好きなんでございます、年こそ違っておりますけれど、たまらない親切なところがあるんでございますから……生かすの殺すの、それはあなた、一時の比喩《たとえ》、夫婦喧嘩同様な愚痴をお聞かせ申しただけなんでございますから、どうぞ……」
 竜之助のつめたい面《かお》に、抉《えぐ》るように微笑ののぼって来たのはその時です。

         十六

 山地は寒《かん》の至ることも早く、白骨《しらほね》の温泉では、炬燵《こたつ》を要するの時となりました。
 この頃、男妾の浅吉は、別な心持で落着かなくなりました。
 というのは、後家さんの圧迫をのがれよう、のがれようと苦しんでいた男妾が、かえっ
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