てみたところで、その時分の人の驚異は、必ずしも今日の人の驚異ではない。ただしかしその時の見物は、さし換《かわ》る番組と、登場者の風俗と、それに伴奏するさまざまの楽器の音と、使用の装飾の道具類とが、見るもの、聞くもの、異常の刺戟でないということはなく、その眩惑《げんわく》のために、半畳《はんじょう》のための半畳を抑え、弥次のための弥次を沈黙させただけの効果と、堪能《たんのう》とは、たしかに存在したものであります。見物は、たしかに今までに見ないものをみせられたことに、沈黙の満足を表現しているといってよろしい。
ことに、その準備と訓練がよく行届いていたせいか、番組の進行、道具方や介添《かいぞえ》までが、キビキビした働きぶり、スカリスカリと歯切れがよく進んで行く興行ぶりは、従来、演芸の吉例(?)としての、初日の不揃いとか、幕間《まくあい》の長いとかいうような見物心理の圧制から解放されて、気の短い、頭の正直な見物を嬉しがらせたことは非常なものです。
演技で酔わされた人が、ホッと我に返ると、
「時間と、幕間は、西洋式に限りますな」
その西洋式の讃美者は、この興行主のお角が諸肌《もろはだ》を脱
前へ
次へ
全288ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング