せん。御老女様はしっかりしておいでなさるし、集まるほどの人も血気の人には相違ないが、そう悪いことをする人たちではありませんから、危ないことはなかろうと思うけれど、万一、このお子さんに怪我があっては、という心配が絶えたことはないのです。
そこで或る日、お松は自分の部屋で赤ん坊を抱き、
「登様、あなたは田舎《いなか》へいらっしゃいますか、田舎はおいやですか」
と話しかけました。
話しかけたって返事のできるわけはありませんが、つい口に出て、
「おいやでなければ、田舎へお連れ申しましょうか。田舎といっても、そんなに遠いところではありませんよ、与八さんのいるところ」
坊やは、じっ[#「じっ」に傍点]とお松の顔を見て、笑いもしないでいるものですから、
「御存じでしょう、与八さんを。あの肥った、親切な人……」
その時、坊やは両手をおどらせて、うれしそうに笑いました。
「登様、もし、あなたがおいやでなければ、わたし、これから手紙を書いて、与八さんのところへ使を頼みますわ。与八さんはよろこんで承知をして下さるでしょう。ですけれども、もし、あなたがおいやですと……田舎に住んでいては出世のために悪いようですとつまり[#「つまり」に傍点]ませんから、いつまでもこっちにいましょうね。どちらに致します」
といって、お松は登の顔にほおずり[#「ほおずり」に傍点]をしました。どちらに致すも致さないもありはしない、生れてまだ幾月もたたない子。思案に余ったことがあるものですから、お松はしきりに、このおさな[#「おさな」に傍点]児に話しかけているのです。
「それは御老女様はえらいお方だし、このお屋敷は結構なお屋敷ですけれども、なんだか世間が騒がしいものですから、あなたや、わたしは暫くあっちへ行っていた方がいいかも知れない」
お松の心を、ドチラにかきめてしまわねばならぬ時節がまもなく来ました。
それはいよいよこの本所の相生町の老女の屋敷を引払わねばならぬ時が来たからです。噂《うわさ》によると、土佐の乾退助《いぬいたいすけ》という人が来て、ここに集まる浪士にすすめて、四国町の薩摩屋敷へ併合せしめたということです。
そうして、お松が主としてつかえた老女は、本国へ帰る途中、ひとまず京都に滞留するのだということです。
老女はどこまでもお気に入りのお松を手放したくはありませんでしたけれど、お松として
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