のさむらい[#「さむらい」に傍点]は何のために来たか。多分、ここの剣術の名を以前に聞いていて、ちかごろは無住で、お化けが出るというような噂に興が乗り、半ば好奇心が手つだって、道を枉《ま》げてたずねてみたものと思われる。
しかし、夜が更《ふ》けて行くと、多摩川の流れの音が、冴《さ》えて聞えるだけで、別段、お化けも出なければ、幽霊も現われず、あたら英雄も髀肉《ひにく》の嘆《たん》に堪えない有様です。
暫くするとコトリと、道場の隅に物音。屹《きっ》とそちらを振向くと、食い残した食膳に一匹の鼠がはいかかっている。なんだ、泰山鳴動《たいざんめいどう》もせずに鼠一匹。
さむらい[#「さむらい」に傍点]は、手裏剣を抜いて、その鼠めを仕留めてやろうと、狙《ねら》いを定めたが、この手裏剣が惜しい。鼠一匹の代価に、この手裏剣を再び研《と》がせるのは愚だ。しかし、つれづれのおりから、よい相手だ。一番仕留めてやろうかな……鼠を打つに器《うつわ》を忌《い》むとはこれ。
「叱《し》ッ」
叱りつけると、鼠は膳を飛び下りて道場の隅を走る。暫くあって、また、こそこそと舞い戻ってくる。
「叱ッ」
追えば、追われた当座だけ逃げて、また戻って来る。
美濃の大垣の正木段之進は、こうして鼠をにらみ[#「にらみ」に傍点]すくめて動けなくしたということが東遊記に書いてある。このさむらい[#「さむらい」に傍点]は、鼠一匹を相手に、追いつ追われつ興がっているが、やはり、器《うつわ》を忌《い》むの心で手裏剣は切って放さない。思い直したと見えて、それを脇差にはさ[#「はさ」に傍点]んでしまい、体を斜めにして、傍《かた》えの木剣を引寄せて、今度来たならば一撃の下《もと》にと身構えしているとは知らず、三度目にこそこそと板の間の隅を走る鼠。
途中まで来て、踏みとどまってこちらを見ました。その瞬間、さむらい[#「さむらい」に傍点]が、初めてゾッとして、構えた木刀を思わず取落そうとしたのは、踏みとどまってこちらを見た鼠の面《かお》が、その時、ずんと伸びて、ほとんど人面と同じほどの大きさに見え、じっと眼を据えて、こちらを睨《にら》み返したからです。
「何を……」
再び、その木剣を取り直した時は、もう鼠の姿は見えず、ただなんとなく、寒気《さむけ》が全身を襲うて来るのみです。
そこで、さむらい[#「さむらい」に傍点]は
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