しません。
 しかし、先生はまたあらたまって、薬研《やげん》の軸を取り直し、真面《まがお》になって、
「ところで今日、こうしてお集まりを願ったのは、余の儀でもございません、さいぜんも申し上げる通り、拙者も近頃、つくづく自分の非を悟った点があるのでゲスから、その点を皆様の前で改めると共に、一つのお約束を致しておきてえんだよ」
 おきてえんだよ……が少し納まらない。
 道庵先生ほどのものが、自分の非をさとって、それを公衆の前で懺悔すると共に、且つ、今後の実行に現わして約束をしようというのは、よほどの道徳的勇気がなければできないことです。
 けれども、ここに集まっているやから[#「やから」に傍点]に、道徳的勇気なんぞの呑込める面《つら》は一つもないのであります。ないからといって、先生は少しもそれを軽蔑するような風情《ふぜい》はなく、諄々《じゅんじゅん》として説きはじめました。
「その昔、奈良朝のころに、帝《みかど》の御病気のお召しにあずかった坊主で、医者を兼ねた何とかいう奴があったが、車に乗せられて帝の御所へいそぐ途中に、見るもあわれな乞食が路傍で病気に苦しんでいたものだ、それを件《くだん》の、坊主で医者を兼ねた奴が見ると、車から飛んで降りて、その乞食を介抱して、とうとう帝のお召しをわすれてしまったという奴がある……ところでまた、おれの先祖には、お百姓の病気を癒《なお》しても十八文、二代将軍の病気を癒しても十八文しきゃ薬礼を取らなかった奴がある」
といい出すと、気の早いデモ[#「デモ」に傍点]倉が、
「取れる奴からはウンと取って、ちっとはこっちへ廻してくれたらよかりそうなものだ、よけいな遠慮じゃねえか」
 この差出口には道庵先生がハタと怒って、
「馬鹿野郎」
と一喝《いっかつ》を食わしたが、急に我と我が唇のあたりをつねって、
「それがいけねえのだ、この口が……ところで、よく考えてごらん、病人と、医者と、薬はついて離れねえものだ、病人がなければ医者はいらねえ、病人があり、医者があっても、薬がなければ飲ませることもできねえ、つけてやることもできねえ」
「先生! 馬鹿につける薬はねえっていいますぜ」
「デモ[#「デモ」に傍点]倉様、お前、今日はまあ少し黙っていておくれよ、おれも今日はしらふ[#「しらふ」に傍点]で話してるんだからな」
 さすがの道庵も、デモ[#「デモ」に傍点]倉
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