は阿礼《あれ》の社《やしろ》より向うへは通さぬ」とか、髪をふり乱し、五体をわななかせ、油汗を流して、呪わしい言葉を口走っている。それを正直に女中たちは、身の毛をよだてて怖れている。その時どうしたのか、急にこの席を外《はず》して立ったのが、この宿の番頭で、まっくろい面《かお》をしながら、うろたえて帳場へ戻って坐り込んだが、落着かないで、物につか[#「つか」に傍点]れたように眼を据《す》えている。
昨晩、女が血相変えて飛び出したのを、留めてみたのもこの番頭で、あの前後のことをうすうす知っているから、只今の巫女《いちこ》の出鱈目《でたらめ》がこの上もなく気になって、席に堪えられなくなったものと見える。
番頭がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]して帳場へ坐り込んでいるところへ、今朝早立ちをした仏頂寺弥助が先に立ち、後ろには戸板に人を載せて人足に担がせて、ドヤドヤと店頭《みせさき》へ入り込み、
「塩尻峠の上でちっとばかり怪我をしたから戻って来た、また厄介になるぞ」
番頭は、この時、面色《めんしょく》が土のようになり、よく戻っておいでになりましたともいいませんでした。
十六
さてまたここは江戸の下谷の長者町。道庵先生は何を感じたものか、俄《にわ》かに触れを廻して、子分のならず[#「ならず」に傍点]者や、近処のワイワイ連を呼び集めました。
何事ならんと馳《は》せ集まった者共を前に置いて、先生は薬研《やげん》の軸を斜《しゃ》に構え、
「皆様、早速お集まり下さいまして……」
先生としては、極めて鄭重《ていちょう》な物のいいぶりでしたから、集まったものが、少し様子が変だと思いました。
変だと思ったのも無理はありません。こういう場合において先生は、いつも野郎共呼ばわりをして傍若無人に振舞うのに、今日に限って、皆様だの、お集まり下さいましてだのと、改まり方が急激でしたから、集まったものも、あんまりいい気持がしませんでした。
けれども、何か、先生も急に発心《ほっしん》したことがあればこそ、こう殊勝に改まったものに相違ないと思うから、みな、神妙にうけたまわっておりますと、先生はおもむろに、
「さて、皆様、実は拙者も、近ごろ悟るところがございまして、皆様の前で、今までの非を改めると共に、今後をお約束致しておきたいことがあるのでございます、それでお忙がしいところ
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