す。
「テ、テ、テッ砲だぞ!」
と主《あるじ》が叫び出したが、自分で何をいい出したかわかってはいますまい。鉄砲の銃口《つつぐち》が無暗に上り下りして躍っています。
すると、外では、やや間《ま》を置いて、
「お雪ちゃんはいないか……ともかくもここをあけて下さい」
「ナニ!」
まだがんがん[#「がんがん」に傍点]として、何が何だかわからないで、居たり、立ったりしていると、程遠からぬ裏の物置にいたお雪と久助との地獄の耳にそれが届きました。
「おや?」
久助の胸に固くなっていたお雪が、まず聞き耳を立てると、久助も、
「あの声は?」
といいました。その時、表で第三度目の戸をたたく音――
「誰もいないか、久助どの、お雪ちゃん」
それでまさしく合点がゆくと共に、二人は重し[#「重し」に傍点]にかけられた千貫の石が、急にハネのけられた気持がしました。
「先生が戻って来ましたよ」
「たしかに、そうでしたよ」
二人が、はじめて立ち上ると、その時、またも表でホトホト叩き、
「ともかくも、ここをあけて下さい」
久助とお雪とは表口へ走り出しました。島原遠征の鉄砲が、漸く手の上に納まったのもこの時であります。土下座をきった駕籠屋、馬方が、生気《いき》を吹き返したのもこの時で、
「誰だい」
「そこへ来たのは誰だい」
お雪が早くも戸の傍へ立って、
「先生ですか!」
「ああ、いま戻りました」
戻ったというのは、地獄から戻ったのか。その声は、たしかに地獄から響いて来たもののような声です。そうでなければ、自分たちが地獄から解放されたような心持で、従って、外なる人の言葉が、まだ地獄の底に救われない人の声のように聞きなされるのでしょう。それでもお雪は、ふるえつくように戸へ手をかけて、
「先生、ほんとに御無事でしたか、お怪我はなさいませんでしたか」
いきなり戸をあけようとするから、久助が心配して、
「まあ、お待ちなさい」
主《あるじ》と、駕籠屋、馬方は、油断なく万一に備える心持で、まだ得物《えもの》を手放さないでいると、
「大丈夫ですよ、それほど用心しなくとも。たしかに先生の声ですもの」
といって、お雪が戸をガラリとあけましたが、あけて後、失神したもののように驚いて、後ろへさがりました。
「まあ……あなたは」
そこに、たしかに竜之助が立っているには立っていましたけれど、その人は血をあびて
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